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Qui etes-vous William Klein ? : les references etc. ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?参考資料&いろいろ~

 2006-02-01
一週間にわたっての連載形式になってしまったウィリアム・クラインについてのメモですが、長ったらしいわりには参考にした資料が少ないです。

?ポンピドゥー・センターでのWilliam Klein展覧会案内プリント
?Les inrockuptibles, No 139(Du18 au 24fevrier1998), pp. 36-41
?Cahiers du cinema, No 522, pp. 14-16
?William Klein, Films, ed. Marval, paris, mars 1998, pp.5-24

films.jpgあと、最初にお断りしたとおり、NOVAというラジオ局で1月22日の19時より放映されたインタビューを参考にしています。こちらはNOVAサイトを見てもアーカイブなし。

さて、個人的な意見を付け加えておきます。
正直言って、ウィリアム・クラインの映画は最後まで見通すのが結構しんどいです。彼の独特さがそれで出ているとよく言われるようですが、手ブレ多いし。あと、ストーリー運びのリズムが速くない。
「地下鉄のザジ」は、ビデオで見たのですが、たしかに色は60年代っぽいしポップでカッコイイ、ちょっとはちゃめちゃな展開もいい、アングルにびっくりさせられる、などの印象と共に、クライマックス(?)となるザジの追いかけっこのシーンがやたら長くてちょっとうんざりしたような記憶が残っています。
「Qui etes-vous Polly Magoo?」は、正直言ってストーリーがよくわからなかった。今見たらもうちょっと面白さが理解できるかな。これも最後まで見るのが辛かった。
「Le couple temoin」は、実はあんまりよく覚えてないんです。これはもう一回観たい。他のに比べて展開はわりとリズム感あったような気が。
「Mister Freedom」は素直に面白かったし、大好きな映画です。なんといっても日本じゃカリスマアイドルフランス人化しているセルジュ・ゲーンズブールが出演している。そしてめちゃ若い。入り乱れダンス・パーティーで、嬉しそうに女の子の洋服を剥いているし。それにポップなヴィジュアル。これは絶対一部の日本人にウケるでしょう(当時の話です。今は知らない)、と思ったけれど、同時にあの政治風刺が伝わるのかな?と思うと疑問でしたが。私は腹の底でくつくつと笑いながら観たのですが、一緒に観に行ったフランス人の男の子は終わった後で「長かった~」と不平をもらしていました。で、彼の感想、長いと感じる=ennuyeux(退屈)ってことだったと思うんですが(表情からしてもそんな感じだった)、なんかねえ、うーん…。政治風刺もカリカチュアが子どもっぽい、みたいなことを言っていたような。まあ感覚の違いでしょうねえ。たしかにアメコミっぽいです。それにたしかに長く感じる。だらだらとした雰囲気がありますから。あんまりぽんぽんとはずんで調子よく進む感じじゃない。でも、それを差し引いても私は面白かったと思いました。もう一回みたいです。
当時はフランス語もまだよく聞き取れなくて、ヨーロッパからみた冷戦というのもよくわかってなかったので、今見直したらまた感想が違うかもしれません(ネガティブな感想になるかも?)。しかし、よく覚えていなかったのですが、先に参考資料として挙げた「Les inrockuptibles」によると、ミスター・フリーダムがタワーの最上階にある彼のオフィスからエレベーターに乗るとき、各階の表示ボタンが色々な国の名前になっていたそうです。98年のインタビューで、クラインは「この映画についてユビュ王のことを言った批評家がいたけど、それは間違ってない。それに今でもそれは続いている。モニカゲートから脱出するためにクリントンはイラクを爆撃したがっているんだからね」と話しています。今だったらきっと、自国を中心としたアメリカのグローバリゼーションの風刺と見るでしょう。それだけ長い間変化していないアメリカ的なものがあるということだろうけど、同時にクラインの視線が鋭いことに驚かされます。
「Le couple temoin」も、voyorisme(覗き見趣味)みたいなところもあるし、今みても古くさく感じないのではないかな~という気がします。

Qui etes-vous William Klein ? 5eme (et derniere) partie ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?その5(最終章)~

 2006-01-31
ウィリアム・クラインは1970年代を通して多くのCM作品を手がけている。
彼は1972年から1982年の10年間で、実に250ものCM撮影をした。しかし、広告という消費社会の重要なファクターに関わりつつも、クラインはメディアにのせられやすい消費社会を風刺した映画を制作する。

1975年から1976年にかけて、「Le couple temoin(モデル・カップル)」というフィクション映画を手がける。
もともとは「Demain la ville」というタイトルでひとつの新しい街、何もないところに突然建てられたモデル・タウンについての映画を構想していた。その映画の一部としてモデル・ハウスに入った一組のモデル・カップルが現れるはずであった。しかし十分な予算がなく、クラインはアイデアを縮小せざるをえなかった。
20060131234314.jpg果たして、ストーリーは次のようになった。国に選ばれた一組の若いカップルが、近未来的でモダンなモデル・ハウスに入居し、生活する。しかしただ生活するのではなく、新しい商品を与えられて次々に試さなければならない。また、社会心理学者や未来学者が彼らをつぶさに観察しコメントを加える。更に野次馬的な一般人たちがモデル・ハウスにやってきて、珍しい動物を見るかのようにモデル・カップルを観察する。
この映画では、国家に密かに誘導される大衆社会へのクラインの冷ややかな視線が感じられる。

ところで、クラインの商業ベースの活動(CM撮りやファッション写真撮影)と彼が自分のために制作する映画の間に矛盾があると指摘することができるだろう。それについて、クラインはこう語っている。「『Le couple temoin』を制作したとき、配給会社が金を持ち去ってしまった。百万もの借金があった。確かに僕は、それを返済する為に数年間たくさんの広告をやった。ファッション写真も同じだ。もし生活のために稼ぐ必要がなかったら、そういう仕事を決してやらなかっただろう。」「借金を支払うために、広告制作に多くの時間を過ごした。それはどちらかというと失われた時間だった。」

ほぼ映像に偏った活動が続いたが、1978年、写真界にも顔を出す。アルルで開かれた国際写真展から特別招待を受ける。

1980年にアメリカでリトル・リチャードについてのドキュメンタリーを撮ったあと、1981年にはフランスで別のドキュメンタリー「The French」を撮影する。
the_french.jpg「The French」は英語で「the French Open」と呼ばれるテニスの全仏オープン、ローラン・ギャロスの映画である。このドキュメンタリー撮影を持ちかけられて、テニス好きのクラインが断るはずがなかった。クラインはフリー・パスをもらって選手控え室までカメラを持って入り込み、選手たちの勝負前の様子、テレビを見ながらの反応、マッサージしてもらうヤニック・ノアや、寡黙で知られたイヴァン・レンドルの笑顔などを撮影した。このドキュメンタリーは最終的に3時間という長さになった。

1982年から1984年にかけて、「Liberation」「Sunday Times」「Leica」などに依頼されて写真活動を続ける。
1983年にポンピドゥー・センターにて展覧会。

映画の分野では、80年代以降、クラインの批判的な鋭さは段々と角がとれていったようである。
1984年、フランスのスポーツ選手たちをスタジオに呼んで「Ralentis」を撮影。NASAに借りたカメラのおかげで、極端なスローモーション映像を実現。
1985年、当時の文化大臣、ジャック・ラングの命によりフランスにおける若手ファッションデザイナーをフィルムにおさめる(「Mode in France」)。

1986年、フランスにおいて「Grand Prix National de la Photographie(写真部門ナショナル・グラン・プリ)」受賞。
1989年には「Officier des Arts et lettres(芸術・文化功労2等勲章)」受勲。

1990年代、クラインは絵画(というかペインティング・アート)にも戻ってくる。
20060201025755.jpg「他人に自分のコンタクト・プリント(べた焼き)を見られるのが大嫌いだった。まるで私的な日記を読まれているみたいだから」と言うクラインであるが、そのコンタクトが彼の新たなペインティング・アートの基盤になった。クラインは自分が撮影した白黒フィルムのコンタクト・プリントの上に、カラー絵の具でペイントを施す。こうした作品は「Contacts peints(コンタクト・ペイント)」と呼ばれる。
1990年から1994年、世界のいたる都市(パリ、ニュー・ヨーク、トリノ、東京と大阪)で展覧会開催。
1993年に「In & out of fashion」制作。ファッション史を下敷きに、自身の写真やコンタクト・ペイントを織り交ぜた映画となる。

1997年より映画「Le Messie」制作開始。フランス、スペイン、ロシア、アメリカ合衆国にて撮影が行われる。
20060201025908.jpg「Le Messie」は、ヘンデルの音楽と共に映像が流れる映画である。もともとは世紀末のためのオラトリオを題材に映画を作りたいと考え、クラッシック音楽として世界で最も演奏されたであろう曲目のひとつ、ヘンデルの同名曲を主題にすることにしたらしい。しかし、ほとんどの場面で、クラインは「人間の条件、現在の生活」を照らし出そうとした。クライン本人によると彼は無宗教で、ヘンデルのこの楽曲を使用したことに宗教的な意味はないらしい。この映画の中には、ただ、悲痛で滑稽な人間の状況がある。
ところで、この映画の中で、西洋絵画の歴史を通して描かれてきたキリストに近い容貌の男性が映し出される。場所はニュー・ヨークの真ん中で、彼はただ黙って立ち尽くし、人々は無関心に通り過ぎていく。この人物が映画にあまりにぴったりくるので、キャスティングをして選ばれたのだろうとひとは考えるだろう。しかし実はたまたま撮影しようとしたところで見つけたのだそうだ。撮影グループの誰かが街角に立っていたこの男性に気付き、「キリストっぽいから彼を撮影してはどうだろうか」と言い、クラインも「いいんじゃないか」と同意して、彼に話し掛けた。「何もしなくていいので、ただしばらく立っていてください」と頼むと、この男性も撮影に承諾して、人々が行き交う中、じっと佇んだ。後にクラインは「奇跡を信じますか?」と聞かれて、「妻と出会ったこと」の次にこの逸話を紹介し「あれは奇跡だった」と述べた。世紀末のオラトリオの映画でも、クラインの明るさはどこかに宿っている。

クラインは闘士的なアンガージュマンの映画を撮ったことを否定しはしないが、本人は一度もデモに参加して腕を振り上げたこともなければ、どこかの政党に入ったこともない。いつまでも闘士的映画人と呼ばれるのは嬉しくないらしい。「僕は全くのアナーキスト」だというし、「自分の自立(independance)を守りたい」という。しかし他方で、「今日、誰が政治的な映画を撮っているか僕は知らない。映画人たちは滞在許可証のない人々のために運動をしたが、人々はうまくいくように映画を作るし、政治的な映画は大勢の観客を引き寄せられない。〔…〕『Mister Freedom』は一種の激昂の中で作られた。しかもひとは68年の人々のことを過激派と呼ぶ。しかし激昂など、今日の映画のどこに見ることができるのか、僕は知らない」と述べている。フランス映画界の事情も考えざるをえないし、彼が数々の映画制作プランを諦めなければならなかったことが思い起こされる。そしてそれ以上に、政治的指向や政治的関心の薄い社会になっているということかもしれない。
それでも、彼の昔の映画(特にフィクション映画)に見られるような闘士的な面は過去のものでしかない、とは思わない。それは次のようなエピソードにクラインの人柄が感じられるからだ。それは、アメリカの大学で、彼の映画についての討論会の最中、ひとりの黒人学生が彼の哲学は何かと訊ねたときのことだ。彼は笑って、毎朝学校で手を胸にあてて唱えさせられた「誓い」のことを話した。「…全ての人に自由と正義を」。「あの頃は、みんなよくわからずに繰り返していた。結局、今日、僕はそれ以上にひとが求めることを思いつかない」と彼は言った。

2002年には写真集「Paris + Klein」出版、パリのヨーロッパ写真館にて展覧会。

2005年12月7日より、ポンピドゥー・センターにて展覧会(2006年2月20日までの予定)。

2006年2月4日、ポンピドゥー・センター内、フラマリオンにてサイン会(予定)。

Qui etes-vous William Klein ? 4eme partie ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?その4~

 2006-01-30
1969年、クラインは招待されてアルジェリアに渡り、そこで行われたアフリカ文化の祭典の模様を撮影した。民族衣装で音楽を奏でたり踊ったりの祭典の様子を収めたフィルムは「Le festival panafricain de la culture」というタイトルがつけられている。
20060131001832.jpgまた、翌年の1970年、同じくアルジェリアで、ブラック・パンサー党の「文化大臣」、エルドリッジ・クリーヴァーをカメラで追った。クリーヴァーはFBIから逃れるためアルジェリアに亡命していた。クラインはクリーヴァーがカスバで折りたたみナイフを購入するのに付き合い、クリーヴァーは撮影中このナイフをいじくり、開いたり閉じたりして弄んだ。映画の中でクリーヴァーはアメリカ政府の転覆や「黒人が生き残る為にブラック・パンサーがリードする闘争」について話すが、まるで自分の闘争的美麗句に陶酔しているようであった。三日三晩、ひっきりなしにハシシを吸うクリーヴァーを捉えるショットは、まるで隠された真実を出現させようとするかのように、徐々にクリーヴァーに近づいていく。クラインの目には「アリは見せかけだけの道化で本物の救世主、クリーヴァーは見せかけだけの救世主で本物の気狂い」と写ったそうである。

アリといえば、クラインは1974年、彼の試合の模様を再び撮影している。ボクシングのチャンプ、カシアス・クレイのドキュメンタリー映画を撮ってから10年後のことである。
20060131002238.jpgカシアス・クレイはイスラムに改宗して名前をモハメド・アリに改めていた。そして、ヴェトナム戦争への徴兵を拒否したため3年間の懲役刑を受け、ヘビー級タイトルを剥奪された上、ボクシングをすることを禁じられた。リングから遠ざかっている間のアリがどのように過ごしているかとても気になっていたクラインは、ジョージ・フォアマンとの対決と聞いてザイールへ飛んだ。
フォアマンとの試合は、リストンとのそれよりももっと驚くべきものとなった。復帰以来、ぱっとした成績があげられなかった32歳のアリと、上り調子で無敵の25歳のフォアマンでは、アリに勝ち目がほとんどないと予想されていた。しかしアリはチャンプの座を奪還した。
その模様を撮影したクラインの映像は、カメラが常に動いており躍動感に満ちていて、その熱狂的な雰囲気を捉えている。

クラインは黒人のドキュメンタリー映画を3本撮っている。アリのドキュメンタリーの後、少し間をあけて、クラインは1980年に「Little Richard story」を製作する。
エルビス・プレスリーとビートルズの人気に押されて斜陽となり、クラインが映画を撮影した頃のリトル・リチャードは影がすっかり薄くなっていた。過去にはそのレコードがミリオン・セラーとなったミュージシャンは、いまやナッシュヴィルの白人カップルの家にやっかいになっていた。クラインが撮影している間に、リチャードは騙されていると感じて姿を消してしまった。クラインはこれに狼狽することなくハリウッドでリトル・リチャードそっくりさん大会を開き、撮影を続けた。リトル・リチャードの出身地であるジョージア州メーコンで、クラインは本人抜きで「リトル・リチャード・デイ」を催した。合衆国の南部の他の多くの町と同じように、打ち捨てられて寂しい町、メーコンがそこに現れる。

彼のドキュメンタリー映画の主題となった人物が黒人であることについて、クラインは「それは左派のユダヤ人ニュー・ヨーカーの、黒人に対する後ろめたさ。それと黒人への熱狂」と言っている。しかし、もしそれが根底にあったとしても、当時のアメリカ人が誰もスポットをあてて映画を撮ろうなどと思わなかった人物に、クラインは注目してドキュメンタリーを制作したのである。モハメド・アリは、まず黒人たちのスターであったが、当時でも国民的スターとして称えられてしかるべきだった。ところが、アリを引っ張り出してきてアトランタ五輪の聖火を灯させ、まるで新しい発見とでもいうように彼を国民の英雄扱いし始めたのは、彼が無害な人物となってからである、とクラインは言っている。
1998年のインタビューで、「フランスの現状を撮りたいと思いますか?」という質問に対し、「僕はフランスで外国人だし、他の人たちのようにフランスの政治について話すことができない」とクラインは答えている。しかし、あるアメリカ人たちのドキュメンタリーを撮ることができたのも、外国のアメリカ人だったからかもしれない。

(またまた…まだまだ続く)

Qui etes-vous William Klein ? 3eme partie ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?その3~

 2006-01-28
初の短編映画を発表した後は、写真と動画(映画やCM)、両方の映像分野にわたる活動が続く。また、名をもったひとりのアーティストとしての活動とメディアの裏方的な活動の両方をこなした。

写真が映画への道を開いたともいえる。
クラインは、写真を通じて、当時写真界のキー・パーソンであったロベール・デルピールに出会った。デルピールは広告会社も持っており、クラインにシトロエンのCM撮影を撮らないかと持ちかけてきた。クラインは彼にボクシングについて映画を撮りたいと話し、デルピールは資金援助を承諾した。
cassius-le-grand.jpgクラインが撮りたいと願ったのは、当時のヘビー級チャンピオン、カシアス・クレイ(後にモハメッド・アリと改名)である。クラインは兵役の間、ボクシングをやっていたし、多くのアメリカ人と同じく子供の頃からボクシングのファンであった。
1964年、カシアス・クレイの歯に衣着せぬ物言いと大口叩きに人々はうんざりしていて、リストンとの試合は善(リストン)対悪(クレイ)の様相を呈していたという。クレイに興味をもったクラインはマイアミに飛び、カシアス・クレイの試合前の様子などを撮影する。この試合で勝利をおさめたクレイは、黒人たちにとってのスターとなった。
120分のこの映画「Cassius le grand」はトゥールの映画祭でグラン・プリを受賞した。

また、都市の写真も撮りつづけた。
1959年から1964年までの間に、ウィリアム・クラインはモスクワと東京を訪れている。冷戦時代にあり、不安を感じながらモスクワ入りしたクラインだが、幼少時に親しんだロシア文学の雰囲気を思い出し、懐かしい感じがしたという。klein-tokyo-cineposter.jpgまた、東京は、クラインにとって全くの異国であった。ひとつひとつの事象が意味することを理解しようと努める前に、見聞きするものをそのまま写しとった。そしてそれらは詩的で魅力的な写真となった。
モスクワと東京の写真は、1964年に出版された。

溯って1962年、テレビのルポルタージュ番組(Cinq colonnes a la une)でのファッションを題材にした撮影を依頼され、それをきっかけにこの番組の撮影をいくつか担当する。その中で、62年のド・ゴールによる国民投票の際、地方に住むフランス人たちが大統領選に対してどんな意見をもっているかのレポートを任された。そこでクラインはフランス人たちの政治家に対する不信感を垣間見る。これを事前に観覧した内務省と外務省の役人たちは放送することに反対した。番組のチーフであるラザレフ、デグロップ、デュメらは素直に引き下がり、このルポルタージュは放映されなかった。「テレビの牽引者たちのこうした気の移りやすさからポリー・マグーが生まれた」とクラインは説明している。

最初の短編映画について自身が解説しているようなクラインの批判的な視線は、その後の映画すべてを貫いている。
PollyMagoo.jpg1966年に公開された「Qui etes-vous Polly Magoo?(ポリー・マグー、お前は誰だ?)」で、クラインは虚構的メディアと現実の乖離に対する風刺をたっぷりときかせた。
映画冒頭、アルミニウムで作った突飛なファッションのショーが展開されるシーンでは、モードを盲目的に賞賛する人々とそれによって成り立っているモードに対する冷笑が盛り込まれている。
しかし視覚的な完成度が高く、そちらの方が目立つ作品ではある。当時盛んだったヌーヴェル・ヴァーグが非常に文学的であった(「おそらくゴダールとトリュフォーを除いて」とクラインは言っているが)のに対し、その視覚性は革新的であった。ファッション写真を撮影する際にクラインが考え出した照明がここで役に立っている。天井にレフ板を設置し、それに照明を反射させることで、日中の光の中にいるような明るさが保たれ、どの角度からでも撮影することができた。
「ポリー・マグー」におけるファッション界への風刺が影響してか、「Vogue」誌との契約は映画公開後に切れた。また、以前からクラインの挑発的なアイデアで撮影された写真は「Vogue」に掲載拒否されることがよくあり、編集長であったダイアナ・ヴリーランドとうまくいっていなかったようである。

「ポリー・マグー」の後、クラインは「Loin du Vietnam」の撮影に参加し、アメリカのシークエンスを受け持った。この映画はクリス・マーカーの案によるコラボレーションで、その他のシークエンスをアラン・レネ、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・ルルーシュ、ヨリス・イヴェンスらが担当した。
クラインは、アメリカのヴェトナム介入に憤慨していた。クリス・マーカーはどのようにして観客を反戦映画へ呼び寄せることができるか考え、友人たちと共に映画を製作することを思いついたのだ。しかし、マーカーの思惑とは裏腹に動員数は減少した。この失敗から、クラインは観客がドキュメンタリー映画にあまり興味がないことを悟り、「アジ的でプロパガンダ的な見世物フィクション映画」を製作することを思いついた。こうして「Mister Freedom」が構想された。

MisterFreedom.jpg「Mister Freedom」は疑いなく政治的な映画である。
ミスター・フリーダムは合衆国の国旗をあしらった、アメリカン・フットボール選手のような出で立ちで、「自由」をまもるために闘うヒーローである。彼の敵はベレー帽を被った赤い軍団。そのカリカチュアは、アメリカン・コミックのようであり、色使いも原色が多くポップである。しかし視覚面だけでなく、日常の言説が問題提起されているところにもポップ性をみるべきであろう。クラインは登場人物たちにケネディやニクソン、ジョンソンらの言葉を言わせた。「観客がそれと認識して、彼らが語っていることがどういった点でグロテスクであるか理解してもらいたかった」そうである。

クラインは「Mister Freedom」の中に群集のデモのシーンが欲しいと思った。それは1968年のことであった。5月、学生運動が起こり、彼の住むカルチェ・ラタンは人々で埋め尽くされた。そこでクラインはデモの様子を撮影した。その後、映画関係者のストが始まり、「Mister Freedom」の編集は中断した。郊外のムードンに映画関係者らが集まり、その後の方針などが話し合われた。2日間ムードンにいて、すべてが起こっているカルチェ・ラタンから離れていることにクラインはふと気付いた。そこへ、ソルボンヌで起こっていることを映像におさめてくれないかと学生達がクラインに依頼しにきた。20060128180642.jpgクラインは5月20日から、彼らの会議、路上での議論、舗石をはがしたりスローガンを叫ぶ学生達、機動隊との衝突などを撮影した。これは後に「Grands soirs et petits matins」と題される。
学生運動の模様は、幾つかの撮影隊(アナーキスト、共産主義者、トロツキー主義者、毛沢東主義者ら)が撮影した映像を総合して映画にする予定であった。しかし5月の集結が終わると、それぞれが自分達の撮影したフィルムを持ってちりぢりに去っていった。彼らがそれを公開しようと決めたのは10年後のことである。

(まだ続く)

Qui etes-vous William Klein ? 2eme partie ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?その2~

 2006-01-26
ニュー・ヨークについての写真集を出版した後、ウィリアム・クラインは映画監督のフェデリコ・フェリーニと知り合う。実はクラインはフェリーニのファンで、「I Vitelloni(青春群像)」の上映のためパリのラファエル・ホテルに宿泊していたフェリーニのもとを訪れ、自分の本を一冊献上しようとした。しかしフェリーニは既に彼の写真集を持っていると言い、次の映画の撮影アシスタントとしてローマに来ないかとクラインを誘った。アシスタントとはどんなことをするのかと訊ねると、フェリーニは「たいしたことない。もし僕が病気になったら君が撮影するんだ」と答えたという。そこでウィリアム・クラインはローマへ赴く。
ローマで、フェリーニは「カビリアの夜」の撮影に着手したところであった。アシスタントとして加わったクラインだが、実際には彼以外にもう10人ほどの助手がいた。更に、フェリーニの父親が亡くなったところで、ジュリエッタ・マシーナは足を骨折、複数のプロデューサーは意見が一致しないという状況で映画撮影は頓挫。娼婦とヒモ男のキャスティングのために写真を撮った以外、クラインには大してやることがなかった。そこで、ニュー・ヨークの写真を撮ったようにローマを撮影しようと思いつく。そして自分のための写真撮影が終わると、クラインはパリに戻った。
このローマの写真集は、1958年に出版された。

ニュー・ヨークの写真集は、クラインにとって映画のようなものだった。色々な出来事が起こり、路上で人々と戯れる、そんな中で写真を撮った。しかしそれを静止画像でしか保持しえないことが、クラインには残念に思われた。また、ローマの写真集を見たフェリーニはそこに映画性をみとめ、映画人になったらいいのに、とクラインに感想を述べた。
20060127003856.jpg1958年、ウィリアム・クラインは初短編映画「Broadway by Light」を製作。コダックのカラーフィルム、コダクローム(kodachrome)で撮影されたこの映画は「最初のポップな映画」と評される。オーソン・ウェルズは後に「私がそれまで観たことがない、色彩が絶対的に必要な映画」と言ったそうである。
しかしクラインによれば、ポップ性はキュビズムの作家の中にすでにあった。煙草の包装や新聞紙をコラージュに使った作品が「ポップ」であり、日常生活の中にあるものをアートとして示したことが「ポップ」である。アメリカの60年代のポップ・アートは本当の発明ではなく、それを取り戻してアメリカ的なもので仕上げたとクラインは言う。
ところで、この映画におけるクラインの意図は、ニュー・ヨークの写真集にみられるような闇の部分と同時に、美しくポップでありつつ馬鹿げていて恐ろしいアメリカ的洗脳の面を示すことだったようである。「とても美しいものが、とても暗いものと同じくらい不安を感じさせることがある。ブロードウェイはパラドックスを提供している」、「ブロードウェイは常に攻撃的なものである」とクラインは言っている。日常生活に密着しているために、普段ひとがそれについてあまり意識して考えないもの、慣れてしまってあまり問題にしないもの、そうしたものに焦点をあてるという点でポップ・アートに通じるとも言える。クラインは「それはジャスパー・ジョーンズがアメリカ国旗で、ウォーホールが缶詰でやったのと同じやり方だった」と言っている。
この映画は、アメリカン・カルチャーのファンであったクリス・マーカーはもとより、ニュー・ヨーカーでありポップ・アートの画家である友人たち、エルスワース・ケリーやジャック・ユンゲルマンの賞賛も得た。

ところで、上記のケリーとユンゲルマンは、フェルナン・レジェのアトリエ時代からクラインと付き合いがあった。彼らはパリに滞在したが、後にニュー・ヨークへと戻った。クラインは何故フランスに残ったのだろうか?
この質問に対し次のようにクラインは答えている。「彼らはニュー・ヨークのギャラリー周辺の外では自分たちが存在しないと感じたので戻った。僕はパリで暮らすことをずっと夢見ていたし、僕は疑いもなく彼らよりも政治性をおびていた。僕は50年代のアメリカに耐えられなかった。いや、もう一つ大きな理由は、家族から逃げたかったんだね。僕はパリでアーティストをやっていて、ユダヤ人ですらないフランス女性と結婚していたし…。宗教にとても忠実な両親とは、もう大して共通するものがなかった。両親は、僕が有名な叔父たちの弁護士事務所に入ることを望んだ。とんでもない。その有名な叔父たちは長編映画の前座としてBroadway by Lightを公開することを決して承諾しなかったんだから。パリでは、人々がそれを観覧することができた。特にルイ・マルが。」

すでにその頃、クラインはパリの映画人たちと交流があった。
ニュー・ヨークの写真集の件で知り合ったクリス・マーカーから、すぐにアラン・レネを紹介され、仲良くなった。知識人や文化人、特に映画人の間にはアメリカに対するある種の憧れが漂っていた時代で、マーカーとレネはクラインを快く迎えた。クラインは彼らとあまりに気が合ったので「彼らが映画を撮っているなら、僕もやろうかな?」と考えたそうである。
その他、アニエス・ヴァルダやジャック・ドゥミらとも親交があった。後にクラインはフランスで映画製作を始めるのであるが、彼らはパリの左岸におり、ヌーヴェル・ヴァーグ派のジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、フランソワ・トリュフォーらは「カイエ・デュ・シネマ」のあるシャン・ゼリゼ界隈、つまり右岸にいた。クラインによると、「僕はアメリカ人で、嘲笑的で風刺的でヴィジュアル的な映画をフランスでやっていたから、ひとは僕を闖入者とみていた。」たしかにクラインの映画は文学的なフランス映画とは異なる。
しかしそれでもクラインは、パリでは映画を撮影して公開する可能性をもつことができたのである。

クラインはレイモン・クノーが好きで、彼の小説を映画化しようと考えていた。ちょうど彼が「地下鉄のザジ」のシナリオを練っていたとき、ルイ・マルが電話をかけてきて「僕と共同監督で映画を撮らないか?」と言ってきた。20060127004143.jpg「共同監督ってどういう意味?」と訊ねると、マルは「意味はないよ、でも僕は知られていて君は無名だ。ルイ・マルの映画だとひとは言うだろう」と答えたという。次いで「でもBroadway by Lightと君の写真をみたよ。君は書物の視覚的翻訳ができるんじゃないかと思うんだ」と言った。そこで、クラインは「クノーのちんぷんかんぷんなエスプリ」を映像にしようと試みた。ラプノーのシナリオと平行して、視覚のシナリオを作成した。撮影グループのメンバーはとてもよかった。しかしクラインはその撮影現場に自分の居場所はないと感じた。1960年に公開された「地下鉄のザジ」は、やはりルイ・マルの映画となった。この映画について、クラインは「この映画はあまり好きじゃない。でもルイ・マルの他の映画とは異なっている。グロテスクな感覚と殆どポップな原色がある」と述べている。

(また続く)
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