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「エレーヌ・ベールの日記」読後メモ

 2010-06-16
さて、「エレーヌ・ベールの日記」です。

エレーヌ・ベールの日記エレーヌ・ベールの日記
(2009/10/29)
エレーヌ・ベール

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これは、ユダヤ系フランス人女性エレーヌ・ベールが、1942年4月7日から1944年2月15日まで綴った日記です。これを書き始めたとき、彼女は21歳。みずみずしく、少し内気でためらいがちながらも自分なりに熟考し、しかしときには大胆に行動し、パリの美しさと田舎の自然を愛した彼女の人間像が、日記を通して伝わってきます。時代は第二次世界大戦の真っ只中、ドイツに占領されたフランスではナチスの政策によりユダヤ人迫害が行われており、エレーヌ・ベールもその対象でした。だから、楽しいことばかりではなく、彼女の哀しみ、苦悩、絶望、怒りなどが率直に書かれています。実は途中、9ヶ月ほど中断されていますし、毎日は書いていません。しかしそれだけに、書きたい気持ちを押さえきれないとき、書き残さなければいけないという使命感で筆をとるときに綴っており、かなり濃密な日記です。

彼女は1944年3月8日に逮捕されましたが、誕生日が3月27日というから、23歳になる直前だったのですね。日記の初めの頃、21歳のときは、英文学を勉強し、友人たちとヴァイオリンを演奏し、美しいパリの街を歩き、自然に囲まれたセカンドハウスで週末を過ごし…と、戦争のさなかとはいえ、若々しく光あふれる日常が描かれています。ただ、離ればなれになっているジェラールという恋人がいて、彼と文通を続ける中で、自分はこのままでいいのだろうか?、彼と人生を歩んでいけるのだろうか?…と悩み、心を痛めます。そのうちに、ソルボンヌ大学で知り合ったジャン・モラヴィエキと次第に心を通わせ、自分と同じような感性をもった彼と恋におち、一緒に時を過ごすようになると、日記を通して幸福感に包まれた彼女の日々のきらめきが感じられます。しかし、それは長続きしませんでした。彼女の個人的生活と平行して、ユダヤ人排斥がすでに始まっていました。1942年6月8日、エレーヌは、ユダヤ人のしるしとして着用を義務づけられた記章「黄色い星」を初めて上着につけて外出し、そのときの「十字架にかけられる苦しみ」を綴っています。また同月24日、彼女の父親が、記章を規定通りに縫い付けていなかった(数着の洋服につけ替えできるよう、ボタンでつけていた)という理由で逮捕され、パリ郊外の収容所へ送られてしまいます。その後、父親はドイツの強制収容所へ送られる直前になんとか帰宅しますが、1942年11月26日、ジャン・モラヴィエキはフランス解放軍に加わるため、北アフリカへ向けて旅立ってしまいます。ジャンとの別離で身を切られるような寂しさを抱えながらも、ユダヤ人排斥が日増しに厳しくなる戦況下、他の人たちのために奔走し、限られた状況と時間の中でも心の支えとなる文学の勉強を続けようともがき、やがて綴られる日記は日がとびとびになっていきます。1943年の秋頃からいよいよ絶望感がエレーヌのなかで広がっていき、それから日記は逮捕直前まで暗い影に染まっています。

日記の中に、エレーヌが周囲の人から聞いた収容所の話などが生々しく書きとめられており、歴史的資料という意味でもこの日記は重要です。彼女自身、戦況下で何が行われているかを後世に伝える義務感のようなものを感じて記していたようです。エレーヌはUGIF(フランス・ユダヤ教徒連合)で、収容所へ送られたり行方のわからなくなった家族を探すユダヤ人たちのために働いていたし、母親を手伝って、孤児になったユダヤ人の子供の受け入れ先を極秘に探したりもしていたので、そうした活動を通して色々な出来事を見聞きしていました。また、その他にも自分のうちを訪問してくる人、強制収容所送り間際でパリに返された人、ドイツで捕虜になっていてフランスへ帰ってきた人、国有鉄道で働いている人などなどから、どんなことが行われているかを耳にします。エレーヌはそうした目撃証言から、ユダヤ人や非対独協力者たちの状況が信じがたいほどひどいものとなっていることを、他の人より身近に感じていたのかもしれません。そうした全てを受け入れようとし、周りの人たちを観察し、何が問題であるかを理解しようとし、そのなかから彼女の聡明さによる鋭い考察が生まれ、書き留められています。

なかでも、1942年7月27日に記されている、UGIFでの幹部養成講座で聞いたレフシュッツという人の話への反感は、現在でもシオニズム的な考えに対する批判として通用するものではないかと思いました。この人物が実際に何を語ったのかはわかりませんし、彼女自身、まだ自分の考えが明瞭でなくはっきりとした反論を展開できないと書いていますが、それでも鋭い指摘をしています。例えば、レフシュッツが「ユダヤ人」をひとつの「人種」とみなしており、ユダヤ人国家の理想について述べるとき、エレーヌは「彼のような人たちは偏狭で、セクト主義に陥っている」「さらに深刻なことに、彼らはナチスの政治思想を正当化してしまっている」と感じています。こうしたシオニズム批判がユダヤ人の側からもあるということは重要でしょう。また、そのずっと後、1943年12月31日の日記で、レフシェッツの話を想起していますが、シオニズムもナチズムも共通して「度を越した誇りを含みもっている」と言っています。エレーヌは、集団に属することで誇りをもつという人間心理は、自分とは相容れないと感じていました。

私はそこで、彼女は実にフランス共和国の人なのだなあ、と思ったのですが、というのも、彼女の根本には、フランス革命以来の原理・原則である「自由・平等・博愛」があって、だからこそ人種や宗教によるグループ化に疑問を持ったように思われるからです。(エレーヌ本人に言わせれば、どちらかといえばキリストの教えなのでしょけれど…。これは後述。)そして、自分が「ユダヤ人」というカテゴリーに入れられる以前に「フランス国民」であることを自覚しています。もっといえば、彼女自身「ユダヤ人」という区別に疑問をもっているのです。レフシェッツの考えへの反感を記した後に「彼ら(レフシェッツのような人たち)がゲットーを作ってかたまればかたまるほど、迫害はいっそうひどくなるだろう。どうして国家の中に国家をつくりたがるのだろうか?」と書いていますが、これは現代フランスの郊外移民問題(「移民」ということ自体が間違っていると私は思うのですが)にも通じるような気がします。

そして、「博愛」(と日本語に訳されるけれどもあんまり正確でないですね;フランス語でfraternite)に象徴される、人と人との間の連帯が、彼女にとって励みとなっていたこともとてもフランス人らしいと言えるかもしれません。彼女が黄色い星をつけて外出した最初の数日、人々の反応が綴られていますが、友人たちは彼女を無言で励まそうと気を使っている様子がうかがえ、彼女もそれを細かく記しています。また、「路上やメトロの中の人たちの好意がある。そうした男女の善意の視線に出会うと、言いしれない感情に心が満たされる。(…)もはや、表面的な人種や宗教、社会階層の差異ーそんなものをわたしは信じたことがないーはなくなり、悪に対する団結と苦悩の共有がある」と書かれています。

黄色い星をつけて人前にでることは苦痛であり、まさに試練と感じたエレーヌは、それをつけるかつけまいか時々逡巡しますが、結局はつけて外出します。初めて記章をつける数日前まで、彼女はそれを「ドイツの法律への服従のあかしだ」と考え、絶対につけまいと決めていたのですが、「他の人たちがそうするなら、自分がしないのは卑怯だと思う」「わたしはいちばん勇気ある行動をしたい」と考え直したのでした。彼女の方からも他の人々への連帯があったわけです。また、自分自身に対して誠実であろうという信念、自分のことより他の人たちのことを思いやろうという姿勢がここに現れているのですが、それはこの日記のすべてを通して貫かれています。それがエレーヌの信条であり、彼女の強さでした。

その反面、人々の無理解や無関心、無知によって、突然刃物で斬りつけられるように傷つけられます。1943年10月17日、友人に「夜、外出できなくて寂しくないかい?」と聞かれ、エレーヌは「なんてこと!この人は、わたしたちの境遇がまだそんな段階だと思っているのだ!」と衝撃を受けます。この時期、すでに外国人だけでなくフランス国籍のユダヤ人も逮捕され、白昼堂々の一斉検挙により多くのパリのユダヤ人が逮捕されていたのです。また、病人や妊婦までも強制移送され、非占領地域である南仏でも逮捕の危険が広がっていました。エレーヌの周囲でも、前年に父親が不意に逮捕されていたし、2ヶ月半ほど前には一斉検挙によってUGIFのオフィスにいた人々が捕まり、彼女の大好きな友人や尊敬していた人々が遠くへ連行されてしまいました。1943年10月28日の日記では、ある女性と話をしたとき、「でも、フランス人がうるさいことを言われるわけじゃないからね。それに、捕まるのは、何かやらかした人たちだけなんだから」と言われ、傷つきます。これは、いつの時代でもそうなのかもしれません。知らないということが、どれだけ人を傷つけることか…。そして知らないということが、状況を悪化させることを許してしまう。

それは当時のカトリック教徒たちに対する批判にも当てはまります。「カトリック教徒たちの無気力に対して」、エレーヌと彼女の母親は怒りを感じます。迷える子羊に甘んじ、司祭の言うことに従うのみので、「もはや、自分の良心にもどづいた、自由な判断を下さない」カトリック教徒たちは、ナチスがユダヤ人たちに行っていることに対してほとんど無関心な態度を示していたのではないでしょうか。(私はコスタ・ガヴラスの映画「アーメン」を思い出しました。)エレーヌは「キリスト教界が大勢で迫害に反対していれば、防ぐことができたのではないだろうか?」と述べていますが、実際、ドイツの要求に国の大多数が反対したデンマーク、フィンランドなどではユダヤ人犠牲者が極端に少なかったそうです(訳者、飛幡さんのコラム参照)。

エレーヌは「キリストの言葉を実践していれば、宗教、そして人種の違いさえ存在してはならないはずなのに、カトリック教徒はキリスト教徒の名に値するだろうか?」と力強く問いかけます。なぜなら、「キリストはすべての人間のために来た」はずなのに、いつのまにかカトリック教徒とユダヤ人にわかれ、それぞれが自分たちの道に固執してひとつに結ばれないのは、キリストの教えに背いているのではないか、とエレーヌは考えるからです。キリストは「人間の平等と友愛に基づいた教義を説いた」のであり、「世界で最も偉大な社会主義者だった」と彼女は言っています。彼女自身も、平等を信じ、人種や宗教による差別に違和感をもち、自分はユダヤ人だと言われるけれども「多くのキリスト教徒よりキリストに近い」と感じてさえいます。そして、「自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属している(…)とは感じないために、自分の考えを主張するときに、わたしは自分の議論と反応、そして良心しかもたない」と言っています。

そう、エレーヌ・ベールはまさに良心の人なのだ、と思います。1944年1月24日、戦況が悪化するなか生き延びて、それでも健全な精神を保つエレーヌは、知り合いのビエデール夫人のスカーフの話に心を痛めます。それは、夫人の娘さんが、お父さんからのプレゼントだからと、とても大切にしていたスカーフでした。そのスカーフをなくして数日後、ビエデール夫人は近所の人がそれを背中にかけているのをみかけたので、どこかで拾ったのではないかと訊いたみたら、夫人のアパートの管理人からもらったという答えが返ってきました。しかし、管理人はアパートの階段で拾ったにちがいないのです。エレーヌは「人はそれほどまでにさもしくなって、八人の子供を抱えた家族から物を奪えるものなのだろうか?」と嘆きます。でも、物質的に裕福な現代でさえ、そのようなことがあってもおかしくないのでは…?と私はちょっと考えてしまいました。そして、エレーヌの純粋さに感心してしまいました。彼女のような素晴らしい精神性を持った人が戦争のさなかに消え去って、現代にはもっとさもしい人たちがのさばっている…と思うと、悲しくなります。

エレーヌ・ベールは、1945年の4月初め、北ドイツのベルゼン=ベルゼン収容所で、イギリス軍に解放されるわずか5日前に、24歳という若さで亡くなりました。20代前半という本来なら人生の輝かしい時期に動乱に見舞われ、その若さでありながら思慮深く、またその若さだからこそ豊かな日記を残せたのかもしれません。いまや第二次世界大戦が前世紀の話となってしまって、遠い昔のように感じられますが、そこから変わるべきなのに変わっていないことがたくさんあるのだ、とこの本を読んで思いました。多くの人に、読んで、感じて、考えてもらいたい本です。

ずいぶんと長くなりましたが、この日記自体がかなりの量なのです。でも難解ではないし、原註や訳註もきちんもついていて、歴史的なことも知ることができます。何より、エレーヌ・ベール自身、彼女が書いていること自体が、素晴らしいです。(共感できるかできないかは人によるかもしれませんが…。)興味を持たれた方は是非読んでみてください。(買わなくても…というと出版社さんに失礼ですが…多くの図書館に入っていると思います。)特に若い人(高校生くらい?)には読んでもらいたい本です。

最後に、この日記を日本語に翻訳した飛幡祐規さんに敬意を表します。
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