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東京現代美術館にて「Plastic Memories/いまを照らす方法」

 2010-05-17
予定外の日本滞在延長で、当初は全く考えてなかった東京見物ができてしまいました。
といってもいわゆる「観光」でなく、ふらふらしてただけですが。
そして、どこから情報を得てくるのか(カロンズネットだと思われる)、Eが「このギャラリーに行ってみよう」とか「この美術館に行きたい」とか言いだしたので、ギャラリーをいくつかと美術館めぐり。

その中で、いちばん心に響いたのが、東京現代美術館の「Plastic Memories/いまを照らす方法」でした。

特に、展示のいちばん初めの『The Voice-Over』(山川冬樹)に、心の底が揺さぶられました。
これは、あるニュースキャスターの死後、彼の残したカセットテープやビデオテープから、彼の息子が音や映像をつなぎ合わせて作ったものです。私はすべてを見なかったのですが、結婚の誓いから葬式まで、ニュースキャスターの半生をたどった作品となっていたようです。
靴を脱いで(この辺が日本っぽい?)絨毯にあがり、黒幕の向こうへ進むと、前面に大きなスクリーンがあり、足下には小さな古いテレビが6台、半円形状に並んでいます。時には真っ暗な部屋の中でカセットテープに録音されたと思われる音声だけが聞こえたり、前面のスクリーンでテレビスタジオにいるニュースキャスターが映されたり、小さなテレビに昔のテレビコマーシャルが映し出されたりします。
カセットテープに録音されているのは、子供との会話だったり、エッセイのようなひとりごとだったり。家庭用ビデオが開発される前に子供時代を過ごした人なら、親子の会話をカセットテープに録音するという体験があるのではないかと思いますが、世代によるでしょうか。私の家族ではそういうことをした記憶があるし、同世代の友人の家庭でもそういう思い出話を聞きます。録音された子供との対話は、個人的なものなのに、「ああ、うちもそうやって録音してた」「そういえば友達のうちもやってた」と、自分の個人史や周囲の人の個人史と重ね合わせることによって、「ひとつの家族の記録」が「あの時代の家族の記録」に聞こえてきます。つまり、それは個人的な「記録」であることから離れて、ひとつの時代の「記憶」になります。
そして、6台の小さなテレビに、それぞれ別々の昔のコマーシャルやニュース番組が流れるとき、同時に違うチャンネルを映すいくつものテレビの中にあって、私たちはまるでその時代に引き戻されたタイムマシーンの中にいるような、または、当時のテレビ局の編集室にいるような、不思議な感覚にとらわれます。私たちは、自分たちがいる「いまここ」、「何年何月何日何時何分の東京都現代美術館の一室」という時点から引き離され、どこか別の時空におかれるのです。
この『The Voice-Over』は、私のとっては、「個人の記録」が「他の人々に共有される記憶」になることを体感させてくれる作品でした。
時間の関係で全部見られなかったのが残念。最初から最後まで通して見ていたら感想も違うものになっていたかもしれませんが…。

また、今年の初め、パリのグラン・パレで話題を呼んだクリスチャン・ボルタンスキーの作品があったことに驚き。やるな、東京都。
タイトルははっきり覚えていないのですが、ある家族の写真を集めた作品は、バカンスや日曜日のピクニック、家の庭などで撮られた家族のスナップが整然と並べられているものでした。そのどの写真も、被写体はひとりではなく、たとえそこに写っているのが一人であっても向けられたまなざしでカメラのこちら側にいる人との絆が感じられ、やはりひとりではなく家族の写真なのです。それらの写真がひとつのまとまりとなり、「家族の記憶」という抽象概念に結びつきます。
もうひとつの『死んだスイス人の資料』という作品では、四角い缶がレンガのように並び、ひとつひとつにポートレイトが貼られています。それらの缶は、真新しく光るメタルではなく、ところどころさびが浮き、過ぎた時間を感じさせます。積み上げられた缶は、まるで棺のようでもあり、中にはポートレイトの人の骨か思い出の品が入っているのだろうか…などと想像をかきたてられます。もちろん空なのでしょうけれど、それはそれでポートレイトの人の生きた時間がそこに詰め込まれているように見え、ひとつひとつの缶は個人史という概念的なものが具象化されたもの、とも言えるのでは。それがいくつも重なっていると、大量(マス)の死を喚起させられ、美術館の説明のなかで言われているように「ホロコーストが想起される作品」です。でも実際は、缶に貼られたポートレイトは、「スイスの、一般の人たちの死亡記事からとられ」たものだそうで、惨劇的な出来事ではなくて死というひとつの概念が現されているのかもしれません。

米田和子という作家の『壁紙』や『熱』というシリーズの写真は、美術館の説明によれば「解体される前の建物の内部を何も手を加えずに撮影」したものだそうですが、実際の人の影は全然ないのに、そこにある痕跡が「誰かがいた」ことを如実に語っています。その痕跡は「誰かがいた」ことの証拠であり、記憶そのものを現しています。

Eが「興味深かった」と言っていたのは、木村友紀の『Pictures of a man』。ヒゲの男の写真が何枚もあり、またその写真のなかで男と共に写っているオブジェ(物)が再現され配置されているもの。ヒゲの男たちは時代も場所も違うところにいて同一人物ではないのに、作家にとって「a man」であり、その男たちの背景にあるものを写真から取り出し、実際に配置することで、ひとつの物語に構築されています。

特に印象に残った作品は、ざっとそんなところです。
「記憶」という主題は本当に奥深い。いやあ、私、好きなのですね、このテーマ。
ところで、相似点のある「しみ」というテーマの展示を国立近代美術館で見たのですが、あまりピンときませんでした。アプローチとして、「しみ」ではずいぶん限定されてしまうからかなあ。あちらはあまり広がりがなかったような気がします。期待しただけに残念でした。

まあ、それもこれも個人的な感想ですけれどね。
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