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コミュニズムの新たな可能性?(軽く雑感)

 2009-05-18
今回の経済危機は深刻だという警告が発せられて久しいが、この前ロンドンで行われたG20の頃から「もう資本主義の限界ではないか」「まだ資本主義は存続しうるか」という話が出てきていて(といっても、私には具体的なタームがわからなくて、あんまり理解できなかったのだが・・・)、「そこまできてんのか」とちょっと驚き。

RUE89で、最近マルクスの「資本論」が売れているという話が載っていた。でも古典だし、本当は継続的にそこそこ売れていて、何かの経済的な問題が起きると「マルクス『資本論』への回帰」みたいな現象が起きるらしい。日本ではマンガが出ているんだってね。(そういえば、「蟹工船」がすごい売れたんだったっけ。)

まあつまり、資本主義に疑問を感じて、マルクスの分析を読み返そう、ということなのだと思うけど。

democratie dans quel etat?ついこの前、アマゾンで本を検索してたらたまたま「Democratie, dans quel etat?」という新しい本を発見。ジョルジオ・アガンベン、アラン・バディウ、ジャック・ランシエール、スラヴォイ・ジジェクといった顔ぶれで、思わず購入。どんな中身かわからないまま注文したので、早く手にしてみたかったが、なぜか到着にやたら時間がかかってちょっと苛立った。大統領選のときにさかんに「デモクラシー」がキーワードになっていたが、あんまり吟味されつくされなかった感じがして、というか単に自分の勉強不足なんだけど、「いまだにやり残した宿題」みたいな気分で、「いまさら」というか、自分のいつもの怠慢さを喚起させられたくないためにできれば振り返りたくない課題のような気もしたのだけど、どんなことが議論されているのか興味をひかれたので、買ってみようという気になった。読むのが遅いのと、まとまった時間があんまりないのとで、今のところとりあえず最初の二つ、アガンベンとバディウを読んだ。アガンベンは、非常にわかりやすくまとまっていたのだが、バディウの方ははっきりわからないところもあった。バディウのテキストは、デモクラシーが世界の支配的勢力のイデオロギーであることへの批判から始まって、プラトンを参照にしつつ、際限がなく欲望に動かされるという原則や、市民の浮気で軽薄な政治参加などに言及、最後に「デモクラシーの反対のもの」の推奨、つまりコミュニズムに新しい希望があるということで締めくくられる(読み間違いがあったらごめんなさい)。そういやバディウって最近、やたらコミュニズム(ここではあえて「共産主義」と言いません)推奨してたなと思い出しつつ、「結局そういうオチなのね」とちょっぴりズッコケな可笑しな気分で読み終えた。(余談だが、今バディウが取り掛かっている最中だというプラトンの「レピュブリック」の翻訳が斬新すぎる。いやあ、面白い。)

ところで、フランスで若松孝二監督の「実録・連合赤軍」が公開されている。見た人の感想を聞くと、どうも「実録」というにはかなり語弊のある映画のようだ。予告編もネット上で見たけれど、リンチ事件があったことを知ってはいても、暴力性・残虐性かなり強調されて描かれているような印象を受けて、映画館の座席でじっと直視させられるのは辛そうな感じ。(つまり私は見に行かないと思う。)それだけでなく、見た人によればどうも納得のいかない映画だったみたいだが、それは「構造的な反省がされていない」ということらしい。そういわれてみれば、この映画に限らず、どうして学生運動があさま山荘事件に辿り着いてしまったのか、振り返って分析するということは表立って十分になされていないのかもしれない。日本社会で目立ってそれがなされなかったために、いつまでも「共産主義=全体主義」という偏見を脱しきれないのではないか(反省うんぬんより以前に資本主義的イデオロギーに抹殺されてたんだろうけど)。社会運動がああいう方向にいってしまったし、冷戦を背景にアメリカのイデオロギーに鼓舞させられて、日本では共産主義がやたらと冷視されているけれど、コミュニズムについて考え直す必要性はあって、今、それがやっと可能になってきた感じはするのだけど、どうか。

それにしても、「実録・連合赤軍」の音楽がジム・オルークでびっくり。サントラ盤、良さそうな気がするので見つけたら買おうかと思うのですが、どうですかね?
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コメント
ども。まずは最近みた若松の映画について。考えさせられたのは政治的議論における日本語の使用法です。『実録連合赤軍』のなかでキー・ワードになってるのは「総括」でした。広辞苑では「全体を総合して、しめくくること。また、全過程を検討・評価すること。」となってるのですが、連合赤軍内では事柄を評価することとその人間の倫理性を評価することが混同されながら事態が進行しています。この問題は現在起きている小沢一郎の献金問題でも繰り返されているようにみえます。ここでは「説明責任」がキー・ワードとなるわけですが、問うほうは何をもって「説明責任」を果たしたといえるのかを曖昧なままにしていつのまにか問題は小沢一郎の政治倫理の問題へとシフトしました。しかしこれはよくよく考えてみると、昨日や今日はじめておきた問題ではなく、日本人が日本語を使い始めたころにまで遡る根深い問題なのではないかと思います。
話しは変わりますが、最近たまたまブックオフの100円本コーナーで吉本隆明の『世界認識の方法』(実家に行けばどこかにあるのですが)を買いました。ご存知のように冒頭はフーコーとの対談なわけです。ここでフーコーはマルクス主義が19世紀の中に完全に収まってしまうようなある種の歴史現象と捉えているのに対し、吉本はマルクスがヘーゲルから引き継いだ意志論の部分が生きるのではないかと切り返しています。そこで話しは意志論の問題に移り、そこでフーコーが西洋哲学では意志の問題が俎上に上ることがなかった、といっているのが印象に残りました。しかしいずれにしても『資本論』を精密に読まなければ問題を論じることはできないでしょう。アルチュセールは「第一巻はできればドイツ語で」といってましたが、わたしは日本語で第一巻を一度読み通しただけですっかり閉口しました。
【2009/05/19 09:11】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
お返事、遅くなってすみません。
「連合赤軍」に関しては、秀逸な感想文があったのですが、個人ブログで、今はアクセスできなくなっていてリンクが貼れません。残念。たしかそこで「総括」という言葉遣いについても触れられていたのですが、内部のメンバー同士が、もうそういう用語を使ってしかコミュニケーションがとれなくなっていて、不器用さというか未熟さというか、そういうものの現れを感じた、ということでした。その他、そのブログでは、「ブスの永田が威張って美人の遠山をいじめる」みたいな陳腐な描かれ方に、「それは違うだろ」って、フェミニズムの歴史的な視点からも反駁されていて面白かったのですが、それはこちらで見てきた人も同様のことを言っていました。小沢辞職関連のことは追ってないのでわからないですが、例えば、「連合赤軍」について言えば、「革命」とか叫んでいた学生運動のグループの中でも、どうも村社会的な「いじめ」の構造のような部分が根強く残っていて、彼らが戦時中の日本軍の行動様式と何も変わっていないことに震撼させられた、いう友人の感想に、たしかにそういうことはいまだに日本社会に残っていて、それを見直さなければいけないのでは・・・考えさせられました。
吉本隆明とフーコーの対談は「dits et ecrits」に収録されていたような・・・。読んでいないのでわからないのですが、そこでフーコーの指した「マルクス主義」は、マルクス哲学そのものではない、「marxisisme」と呼ばれているもののようですね。その辺で、吉本との間で何かかみあわない部分があったのでは、という気がしますが・・・。意志論とかのことはわからないです。
私は資本論、読んでみようと思いつつ、数ページでもうダメだったような・・・あはは。
【2009/05/26 14:57】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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