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書と絵

 2008-05-31
一週間ほど前、なかなか連絡がつかないIさんがどうしているか気になり、彼の職場に行ってみた。果たして彼はそこにいた。ちゃんと生きていたようだ。よかったよかった。「仕事がもうすぐ終わるから」と、後でカフェにでも行こうということになった。そして結局、カフェでビールを飲んでいたら雨が降ってきたので、そのまま夕飯も食べることになった。

パリ市内のとあるお店で働いているIさんであるが、本来は画家さんで、郊外で絵を教えたりもしている。「何でもイメージに置き換えないと頭で理解できない」というが、よく本も読む人で、いつも面白い話を聞かせてくれる。

先日、マイミクさんの日記で墨絵のことが書かれていて、興味がひかれたのでその話をしてみた。絵と書道に使う墨は違うものなのかという素朴な疑問をぶつけてみたら、「もともとは絵に文章がついていたのだから同じ物だろう」と言う。それから書の話になった。

石川九楊という、書道家で書道研究者の人の本に書いてあるらしいのだが、中国の書は3500年の歴史があり、もとは骨や石に文字を刻みつけるところから始まったそうだ。しかし、運搬に適さなかったりして、実用面の問題から、次第に紙に書き付けられるようになった。紙が使われ始めた頃は、「あまり信用のない代物」「仮のもの」と考えられていたらしい。結局、そのうち紙が主流になった。しかし紙面上の書には、彫刻の性格が残っているそうである。例えば、ゆっくりと筆を落としたままにしていると、墨汁は紙にどんどん染み込むが、この染み込み度は文字を刻み付けるときの深さに相応するという。また、書をしたためるとき紙の下にフェルト地を敷くが、この細かい毛羽立った下敷きが紙を宙に浮かせ、書は空中でなされる。つまり、書は形而上学的になされるものなのだそうである。そのため、この下敷きは、なんでも良いわけではなく、例えば同じ性質の生地でも使い古した毛布などはもってのほか、そのような日常に密着したものを使ってはいけないのだそうだ。

書がそのように奥の深いものだとは知らなかった。先月一時帰国したとき、少し気になって、日本で硯と筆を買ってこようかと思ったけれど、硯は重いのでやめたのだ。多少無理してまで荷物に入れようというまでのやる気がなかったということもあるけれど。ちょっと後悔。まあパリでも売っているところはあるし、その気になれば手に入るのだけど…なんせ小学校の頃から書道はめちゃくちゃ苦手、ノートの字も汚い、祖父が書道家だったと誰が信じるであろうか…そんな私が手習いを始めても続くかどうか全く自信はない。そのまま墨で絵をかいてしまうかもしれない。(実は絵はわりと得意。)

それから、Iさんが自分の完成しない絵について話してくれた。ある意味、彼の人生がその完成しない絵に投影されていることがわかって、彼にとって絵を描くことがどれほど重要であるかに思いをめぐらせた。どうかいつか完成できますように。

Iさんにとっての絵のように、自分にとってそれくらい大事なものって何だろうと最近考える。もしかしたら、今まで諦めてしまったもの、捨ててしまったものの中に、そういうものがあったのかもしれない…そんな気も少しして、この頃また手探りをしている。
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コメント
書についてとても興味深く読ませてもらいました。そうかー、書は形而上学的なものだったのか!確かに墨を使う時は、書でも絵でも精神的に何かが変わる気が初心者の私にも分かります。だから先生の説明も、哲学的な会話になり、その後も、私は線を前にいつもうなってしまいます。
【2008/06/04 16:13】 | #- | [edit]
↑名前がないけど、ももさんかな?
墨絵・書道の歴史って西洋絵画の歴史とまた全然違うのでしょうねー。
【2008/06/07 13:03】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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