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東西ドイツにおける敗戦直後の喪の作業 その2

 2006-12-13
その1からの続き)

ドイツ民主共和国における喪の作業
ソビエト連邦の占領とそれに導かれた抑圧的な政策により、ドイツ民主共和国においては、国民の犠牲者意識が強まり、反面、罪悪感が軽減された。
ピエール-イヴ・ゴダールは、ある逸話を取り上げている。それは、ラーフェンスブリュック女性収容所があったフルステンベルグという街で起こった出来事である。1992年、旧強制収容所の敷地内、かつての囚人の手によって敷かれた石畳の上に、スーパーマーケットを建設する計画が進められた。これには世界中から抗議の声が上がり、結局、計画は中止を余儀なくされた。しかし、その街の多くの住民は、計画に反対する人々の怒りが理解できなかった。ソ連の支配下と40年にわたる社会主義による貧困を生き、博物館や記念碑訪問といった毎年の義務を長年果たしてきた後で、やっと普通の生活を送ることができるのは正当だと考えていたからである。スーパーの建設は、彼らにとって、時代の変化と不運からの脱出の徴であった。
この逸話に、東ドイツの人々が自分達を犠牲者と感じていたという面が現れているといえよう。

ところで、東ドイツでは、戦後すぐにナチスの罪と虐殺についての反省が現れた。それは特に、亡命から戻ってきたユダヤ系知識人によってなされた。「水晶の夜」の10周年追悼式が行われたのも、1948年、ソ連占領下においてであった。
しかしながら、次の追悼式は1988年まで待たなければならない。この40年の空白は、反ファシズムによる戦後再建の時代を意味している。

1945年、ドイツの再建が始まった。KPD(ドイツ共産党)の旧メンバーは周辺に追いやられ、新メンバーによってソ連的政策が進められた。旧共産党員たちはヒトラー政権下での活動について厳しい尋問を受け、その傍ら、ヴァルター・ウルブリヒト(ドイツ共産党結成運動に参加し、ナチス政権の間、国外へ亡命していたが、ドイツ降伏直前に帰国。ドイツの行政機構樹立に活躍)は多くの新メンバーを採用した。他方、以前から共産党が強い地域での党員増加はなかった。旧メンバーのグループが弱体化したことで、反ファシズムの要求に適合する新たな歴史認識を広めることが可能になった。それは、戦時中の「ファシズムに対する抵抗運動」が特に強調された過去の再建であった。そして、いまや政治の主流を担う新メンバーが、その抵抗運動の中心であったとみなされた。その結果、KPO(オーストリア共産党)やSAP(社会労働党)、エホバの証人などのレジスタンスの歴史は掻き消されてしまった。

また、反ファシズムの強化は、ナチスのある種の犯罪をファシズムという名の影に隠してしまうこととなった。特に人種差別的な犯罪がそうで、ユダヤ人やジプシーといった、数の上で最も重要な犠牲者たちは、犯罪の記憶から消去された。
SEDのイデオロギーによれば、ナチスの犠牲になったのは抵抗運動に参加した人々だったのである。

反ファシズムは、つきまとう罪悪感を否定するのに重要な役割を果たした。東ドイツ国民が、自分達の名のもとにナチスによって殺された犠牲者にとらわれていないと感じることができたのは、この反ファシズムのおかげである。
ここで、個人の防衛機能が病的に働く例をあげよう。罪悪感に対する躁病的な反応の場合、自我はメランコリー的状態(苦しみ、不安、鬱)に陥るのを避けるため、罪悪感を感じる代わりに、過度な楽観や安全に満ちた確信を感じる。罪悪感の否定は、この罪悪感を死者や第三者に投射する。こうしたケースでは、完全な幸福感や興奮、過度の攻撃性などが現れる。
以上が病的な例であるとしても、ここから引き出せるものがあるだろう。東ドイツにおける反ファシズムへの傾倒とその盛り上がりの動因のひとつは、自分の名によって行われた残虐行為の責任の拒絶であった、と、逆に述べることができる。

生き残った国民は反ファシズムのレジスタンスであるという認識が広められる一方で、死者もまたファシズムの犠牲者とみなされた。ドイツ民主共和国の政体は死者を観念化・理想化するという手法をとり、それによって死者の表象を一元化した。
亡くなった犠牲者に関して、具体的な場所や人物への回顧は不在であり、1950年代末から1960年代初期にはシンボル的な記念碑が建てられた。また、記念パネルは一律化された。マルティン・シェーンフェルドの言葉を借りれば「規格化された記憶」であり「〔犠牲者の〕個性を平均化し、レジスタンスの単なる表象という地位に〔犠牲者を〕落とす」ものであった。政治犯としての犠牲者たちは、赤い三角形という記号で現わされた。犠牲者というひとつのグループの中で、個々人は匿名となった。更に、Volkard Kniggeによれば、犠牲者の多様性は政治犯として投獄された者と反ファシズムの闘志だけに集約された。そして、彼らは英雄となっただけでなく、不死の刻印を押された。

こうして、犠牲者のための追悼式は、やがて、祖先を祀る宗教を想起させる儀式的な様相を帯びた。この祭式化のおかげで国民全体が追悼に参加した。そして、こうした追悼においては、死者たちの良い面だけが回想され、死者たちが呼び起こす怖れや不安、罪悪感という危険から、国民はまもられた。

ナチスへの抵抗運動は、SEDの重要なイデオロギーの一つであったが、これは多くの国民の支持を得、ファシズムの犠牲者たちに遺されたものとして、東ドイツの政体は正当な存在意義を獲得した。
共産主義のレジスタンスと「ドイツ国民の最高の力」の結合が反ヒトラーであるならば、それが失敗にしかつながらないという論理はありえない。かつてナチスの台頭を許したものの、東ドイツは反ファシズムと社会主義の国家建設という歴史的勝利に導かれたのだ、と考えられるようになる。

大部分の国民はかつてナチスを支持していたが、戦後は容易に東ドイツ社会の再建へ統合された。国家社会主義(ナチス)は資本主義の権化へと還元された。すなわち、ナチスを資本主義の矛盾によって生じたものであるとみなすことで、個人及び集団の道徳的な責任問題は避けられたのである。そうして基本的な点を闇に残すことになった。つまり、ナチスの抑圧や虐殺行為などに共謀した大衆の罪は問われないこととなった。ナチスに加担した高官たちが罰せられ、下の地位の者たちは、少しでも社会主義的な考えを表明すれば保護された。

SEDは、国民前線を強化し、同時に現実の犠牲者を霧消させていった。
1949年以来、国際的な状況と西ドイツとの競争により、東ドイツは国内強化を進める必要があった。国民を「ドイツ統一のための闘い」に向かわせるため、ドイツ民主共和国の政体は旧ナチス党員と旧国防軍員を社会に統合する方針を打ち出した。1949年には旧ナチス党員と旧国防軍員への恩赦の法律が、つづいて1952年には彼らの市民権復活を認める法律が決まった。そして同時に、現実の犠牲者の認知はますます縮小されていった。最終的にVVN(国家社会主義の犠牲者委員会)は解散へと導かれた。VVNの集会では、国民前線を強化することの重要性が説かれ、犠牲者委員会の内側から犠牲者への抑圧が起こった。犠牲者団体のこの機能不全の背後にはSEDの操作があった。

このようにして、伝説化された犠牲者が国民の中に浸透し、大衆は現実の犠牲者の上に勝利を築いた。
問われなかった問題、そして問われるべき問題は、「反ファシズムの動因は何であったか?」であり、「東ドイツの国民がなぜファシズム的価値観から社会主義的価値観へ容易に移行できたのか?」である。

80年代までは、文学と芸術が、ナチスの犯罪と国家社会主義への抵抗運動を反省する領野であった。その後、冷戦が終わり、西ドイツとの関係の修復やアメリカに認知されたいという願望によって、東ドイツも歴史に対しても開かれてきた。1990年代、ホロコースト、特に水晶の夜の公式な記念式典の復活は象徴的である。
しかしそれでも、反ファシズムの記憶は旧東ドイツ地域に残っている。

(続く)
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