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クラフチェンコ事件 その3

 2006-12-06
その1その2からの続き)

ところで、クラフチェンコはなぜフランスで裁判を起こしたのだろうか?彼は、すでにアメリカ国内で、自分の書いた本に対する抗議を受けていた。
クラフチェンコはパリへ到着してからの記者会見で、「自由世界の国でこの裁判が行われることを望んだ」と答えている。更に、冷戦構造の中でフランスが微妙で重要な立場にあることを、彼は意識していたのではないか、ともいわれている。

また、フランスの共産主義者たちは、なぜ「Les lettres francaises」の記事に現れるような過剰なほどの反応を見せたのであろうか?
第二次世界大戦後、フランスの共産主義のイメージは戦時中のレジスタンス運動と結びついている。ドイツ軍占領下にあって、ナチス及び対独協力的なヴィシー政権への抵抗運動に参加した者の多くは、共産主義的な人々であった。ロンドンに亡命していたド・ゴール将軍が、解放された直後のパリへ急いで戻って国民の歓呼に応えたのも、共産主義者の国内レジスタンス派よりも自らの働きが大きかったと内外に印象付けるためだったといわれる。つまり、共産主義者がレジスタンスに果たした役割はそれだけ大きかったということである。戦後のフランスにおいて共産主義は好意的に受け取られていた。実際、当時の共産党は議会の3割弱を占めており、社会党、MRP(人民共和運動)と並んで重要な政党のひとつであった。その時代のフランスにあって共産主義を攻撃することは、レジスタンスを攻撃することに近かったのである。
ところで、レジスタンスはフランス国民にとって英雄であった。しかし、戦時中、対独協力した者は少なくないはずである。生命の危険に及ぶ状況では、意に反してそれを選択した者もいたであろうが。戦争が終わると、対独協力者の処罰が問題になった。抑圧からの解放により、ナチスに対する憎悪が爆発して、対独協力者に対するリンチめいた制裁も起こった。それは、フランス国民が戦時中に受けた傷の膿が出たものと言えるであろう。戦後、この傷を忘れるため、ひとたびヴィシー政権への懲罰措置がとられると、時代に区切りをつけ、「フランス国民は皆レジスタンスとして戦った」という神話に逃げ込むようになった。つまり、当時のフランス人にとって、レジスタンスはひとつの自尊心であった。レジスタンスが攻撃されるということが、当時の多くのフランス人にとって耐え難かったであろうことは、容易に想像されえるだろう。
そして何より、「Les lettres francaises」はレジスタンスのさなか、ドイツ軍に銃殺された高校教師によって創設され、戦後は共産主義者の中核をなす雑誌であったことは付言に価する。

また、フランスの共産主義者の多くはソ連のことを、理想を実現した国、パラダイスである、と信じたがっていた。クラフチェンコ以前にも、ソ連の実状を伝える手記はあったが、ほとんどが亡命者か右派思想の作家によるものであった。フランスの左派たちは、それを「証言」ではなく「対立派が書いたもの」として受け取っていた。しかし、クラフチェンコは、平凡な一般市民として、彼自身の日常的な経験について、家族のことや恋人たちのこと、監視のもとで飢えと不衛生に苦しんだ学生生活など、単純で親しみやすい筆致で綴った。これは、フランスの共産主義者たちのそれまでの態度を揺るがした。

さて、後回しになってしまったが、「Les lettres francaises」の記事の具体的内容について触れておこう。その記事はシム・トーマスというアメリカ人記者の署名がなされている。彼は、CIAの前身OSSに属するある人物からクラフチェンコに関する情報を得たという。クラフチェンコはアメリカのスパイで、反ソ連の政治宣伝的な本を書くよう司令を受けたというのだ。更に、クラフチェンコ自身についての逸話も挿入されていた。そこでは、クラフチェンコは「無学で酔っ払い、詐欺師、精神薄弱者、放蕩者であり、彼はボーナスをもらう為、URSSで偽の収益報告書をでっちあげ、借金返済のためにアメリカの諜報部にサインを売った」と言われている。
クラフチェンコはこの記事に非常に驚いた。彼はシム・トーマスなる記者のことは聞いたことがなかったし、アメリカでそんな記者のことを知る者は誰もいなかった。そこで、「Les lettres francaises」に、この記者について問い合わせたが、うまく逃げられてしまった。クラフチェンコがパリに到着して記者会見を開くと、フランスのこの雑誌も対抗して記者会見を開き、シム・トーマスは存在するしロシアに強制収容所などない、と言い張った。しかし、じつはシム・トーマスは架空の人物だった。30年後に出版された、「Les lettres francaises」のディレクターだったクロード・モルガンの回想録によれば、シム・トーマスの記事はアンドレ・ウルマンが持ってきたもので、彼こそが真の筆者だったのである。

つまり実際に、存在しない人物によってでっちあげられていたのは、クラフチェンコの本ではなく、「Les lettres francaises」の記事の方であった。
お粗末な事実のわりには裁判がこれだけ大きなものとなったのは、共産主義者たちの強烈な否認に因るといえるであろう。
しかし、この否認を、私たちは嘲笑したり、単純に無反省に非難したりすることはできない。先に述べたように、この否認は国民の自尊心に関わるものであった。愛国的自尊心を擁護することなしに自国の暗い過去の責任を語れない傾向が顕著になりつつあるのは、最近指摘されるところである。現在みとめられるこうした傾向と、クラフチェンコ事件にみられるような否認の間に、どれだけの距離があるであろうか。



これは、シンポジウムで発表された内容そのままではなく、発表中に紹介されたことを検索して確認し、自分なりの視点を盛り込んだものになっています。
ちなみに、シンポジウムではパリ第8大学の歴史・文学研究者、クロード・ムシャール(Claude MOUCHARD)名誉教授による「Retour sue l'affaire Kravchenko」という発表でした。

クラフチェンコ事件の詳しい内容について、主に参照したのは、Conscience politiqueサイト内、「Chapitre 3 : Kravchenko : "J'ai choisi la liberte !"」

戦後のフランスにおけるレジスタンスの状況は、渡邊啓貴著「フランス現代史」(中公新書)を参考にしました。

※12月7日、訳の一部を修正
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