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クラフチェンコ事件 その2

 2006-12-05
その1からの続き)

また、クラフチェンコ側証人として呼ばれたマルガレーテ・ブーバー-ノイマンの証言は非常に重要で、強い印象を人々に与えた。後の1949年、彼女はシベリアの強制収容所のことを綴った本(「Deportee en Siberie : Prisonniere de Staline et d'Hitler」)を出版するのであるが、フランスの多くの左派知識人はこれによって確信を揺るがされることとなる。シモーヌ・ド・ボーヴォワールはソ連強制収容所の存在を認めたが、他の多くの人々はこの事実をなかなか受け入れられなかった。

margarete.jpgマルガレーテ・ブーバー-ノイマンは1901年ポツダム生まれ。ユダヤ教宗教哲学者マルティン・ブーバーの息子、ラファエル・ブーバーとの離婚の後、ハインツ・ノイマンと再婚(彼女の苗字は二人の夫の名を残している)。マルガレーテは1926年、25歳でドイツ共産党に入党。夫、ハインツは、ドイツ共産党の最高幹部の一人として、モスクワや中国で活躍していた。1937年、二人はナチスを逃れた先のモスクワでNKVDに逮捕された。その後、ハインツは消息不明で、裁判もされずに処刑されたのではないかと思われる。マルガレーテの方は、1938年に、シベリアのカザフスタン収容所で5年間の強制労働の刑という判決を受けた。後に独ソ不可侵条約が結ばれると、他のドイツ共産党員たちと共にゲシュタポに引き渡され、1940年、ラーフェンスブリュックの女性収容所へ送還。1945年の解放時、彼女は赤軍がやってくる前に収容所から脱出。その後、1989年11月6日に亡くなるまでフランクフルトで暮らした。

ところで、マルガレーテ・ブーバー-ノイマンは、ラーフェンスブリュックの女性収容所で出会ったミレナ・イェンセスカーという女性のことを本にしている(「カフカの恋人 ミレナ」「Milena」)。ミレナはカフカの恋人として知られており、カフカとの書簡が出版されている(「ミレナへの手紙」「Lettres a Milena」)。

milena.jpgミレナ・イェンセスカーは1896年8月10日、プラハに生まれた。翻訳家でありジャーナリスト。13歳で最愛の母を亡くし、22歳で父の反対を押し切って結婚。その後、父からの絶縁、ウィーンでの暗転した結婚生活、生活費を稼ぐ為のチェコ語の個人レッスンや駅での荷物運び、ジャーナリストとしての出発、カフカとの出会いと別れ、離婚、新しい恋人とのプラハへの帰郷、別れと出会い、再婚、出産と同時に闘病におけるモルヒネ中毒・・・と、波乱万丈の人生を送っている。1931年に共産党に入党するものの、矛盾を感じとり、5年後には脱退。1938年、ミュンヘン条約によってチェコスロバキアのズデーデン地方がドイツへ割譲された後、新聞に政治的な記事を書きつづけ、レジスタンスを呼びかけた。合法的手段にとどまらず、レジスタンスの秘密新聞に寄稿し、ナチスの支配下で虐げられる人々の逃亡計画を手助けした。1939年、ゲシュタポに逮捕され、パンクラーツの強制収容所へ送られる。そこからチェコのブルゼニ地方ベネショヴィツェ、次にドレスデンへと移送された後、証拠不十分で釈放されるはずであったが、ゲシュタポは彼女をラーフェンスブリュックの女性収容所へ送った。1944年5月、疲労困憊の末、健康状態が悪化し、収容所内で死亡。

この二人の女性、マルガレーテ・ブーバー-ノイマンとミレナ・イェンセスカーは、状況に屈しない芯の強さが似ている。二人が心を通わせたのも頷けるような気がする。
二人とも、自国共産党の理想からかけ離れた、スターリン主義のソ連の現実を知っていた。マルガレーテはシベリアの収容所を体験したし、ミレナはソ連に足を踏み入れたことはないものの「ソ連に渡った数多くのチェコ共産党員たちはどうなったのか?彼らの多くは収容所に入れられていることがわかるときがくるのではないだろうか?」とモスクワ・ラジオの共産党員たちに呼びかける記事を書いている。
特にマルガレーテは、自分が経験したことを否定されるという局面に出会っても屈しなかった。ラーフェンスブリュックの収容所内で、他の共産党員たちに質問を浴びせられ、ソ連で受けた扱いについて隠すことなく語ったのであるが、誰にも信じてもらえず、逆に「裏切り者」のレッテルを貼られ、仲間はずれにされていた。それでも自分の真実を相手に譲ることはできなかった。(幸運にも、そのような状況の中でミレナに出会ったのであるが。)しかも、そうした否認に直面したのはラーフェンスブリュックの収容所だけではなかった。クラフチェンコ裁判の行われたフランスでも同じであった。

裁判中、マルガレーテ・ブーバー-ノイマンの証言に対して、「Les lettres francaises」側のノールマン弁護士は、ラーフェンスブリュック収容所の女性達を解放したのは赤軍であったことを述べ、形勢を立て直そうと試みた。彼は、ロシアやウクライナの農民たちの証言、強制収容所を体験した人々の証言が続く中、常に「それらはナチスのプロパガンダだ」と反論していた。すでに身体的な衰えが隠せなかったマルガレーテであるが、毅然としてノールマン弁護士に抗弁した。「幸運にも、私は彼らを待たなかったのです。逃亡しました。収容所の共産党員たちに、私はシベリアに送られるだろうと教えられたのです」と。

(続く)



カフカと交流があったこともあり、ミレナ・イェンセスカーについては語られることが多いようだが、マルガレーテについてはインターネットで検索しても関連サイトは少ない。

「Litterature&Compagnies」のサイトで「Milena」の抜粋が読める(フランス語)→
「Milena」
「Temoignages」のサイト内、ミレナ・イェンセスカーに詳しいページ(フランス語)→「1 - Milena Jesenska : un cœur ardent, un esprit lucide」
個人サイト内、ミレナ・イェンセスカーの生涯を綴ったページ(フランス語)→「Milena JESENSKA」
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