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サッカー考・ワールドカップによせて (国民的感情編) その2

 2006-07-18
その1からの続きです。
それにしても、こんなに幾つも書くことになると思わなくて、大仰でセンスのないタイトルをつけたことが恥ずかしく、後悔している…。

ところで、私はフランス人じゃないけどフランスを応援した。サッカーにそれほど興味がないくせにワールド・カップに熱中した。これはどう解釈したらいいのか。いわゆる「おフランス大好き」、典型的なおフランスかぶれの勘違いでフランス人に同一化し愛国心を振りかざしたかったのだろうか…、メディアにのせられ世間に流されていたのだろうか…と自問もしてみた。んーーー、否めない部分もあるかも??でも、とりあえず他の理由も探ってみた。

日本と違って、フランスは愛国心にコンプレックスがない。パトリオティズムは、第二次世界大戦でフランスをナチスから救う努力をしたレジスタンスにあった。そしてフランスは、その戦争に勝った。
とはいえ、私はフランス人ではないから、フランスに愛国心をもつというのもヘンなのではないか。

そもそも「愛国心」とは何か。単純に「国を愛する心」のことだよなあ。戦後60年が経過し、「愛国心」という言葉につきまとう亡霊が薄らいできて、最近は日本でもその言葉を口にすることに違和感がなくなり、そういう素直な意味に受け止められてきている気がする。括弧をとってしまえばいい。
それなら、私は外国人だけどフランスで生活していてフランスが好きだし、その気持ちを愛国心と言ってもいいのかもしれない、と思う。
その傍ら、そうは言ってもフランス国籍をもつ人の愛国心とは違うだろうと思う。やっぱり私は外国人なのだ。選挙権とかないし。フランスという国家に対して負う責任や役割は少ない。フランスは好きだけど、そういうところで、フランス国民のパトリオティズムと同一視してはならない、と、距離をおく気持ちはある。

私がフランス代表チームを応援したのは、愛国心とは違うと感じる。ある国を愛しているからといって、その国のサッカーチームを応援しなきゃならない義理はない。大体、フランスは今大会の当初無関心モードが一般的だったし、多くの国民が「サッカーファンのイベント」だと思っていた。なのに、私は自分からフランス代表チームを応援したいと思った。

じゃあサッカーが好きだったんだ?というと、そういうわけでもなく。実際、開催前までは、私もワールド・カップのことなど全く気にしてなかった。ただ、たまたま夜にTVを見る時間帯にワールド・カップの試合を連日やっていて、それを見ていたら面白くて、滅多に見られないヨーロッパ以外のチームのことも気になったりして、結局沢山試合を見た。まあヒマだったというのもあって、というか、「ヒマだった」の一言に尽きるかも…。
で、見始めたら、一番気になったのがフランス代表チーム。だって、サッカーの選手なんて、フランス代表チームの人たちくらいしか知らなかったし(あとは、ヨーロッパの強いチームの他国選手ちらほら)。メディアの力もあるかもしれないけど、フランスにいて、自分がよく知っていて愛着があるのはやっぱりフランス人選手。そして、ジダンの引退試合だったし。あと、予選グループの内訳をみて、「これはフランス代表チームが決勝トーナメントに出られるかも」と期待した、というのもある。
ちなみに、日本の選手はほぼ全員知らなかったし(中田ヒデと中村俊輔とGK川口の名前くらいは知ってたけど。あと、小野って出てたっけ?…というくらい無知)、今大会の試合はほとんどみていない。そして、正直に言って、強くないだろうと思った。過去に日本代表チームの試合を見たことがあるけど、面白いと思わなかった。それで、サムライ・ブルーには全く関心がなかった。だからといって、別に日本に対する愛国心がないわけではないし、それが愛国心のない証拠だと言われる筋合いはないと思う。
だから、自分は愛国心からフランスを応援したんじゃなくて、フランス代表チームを応援して、サッカー観戦も楽しんだ、と思う。

自分は自身をそう解釈して納得したけど、愛国心で自国チームを応援していると(多分無意識に)考えている人は、少なくないと思う。ル・フィガロの哲学者の寄稿もその例の一つで、フランス人がサッカーの試合を見に集まることを国民的なつながりと比較している。
そして、この哲学者が言うように、私も他の人たちと一緒に観戦したいと思った。それは、彼が指摘している通り、自宅で一人で見ているよりも大勢の人と一緒に感動を分かち合った方が楽しさが倍増すると思ったからだ。でも、私の場合、それは国民的な結びつきを求めてというよりは、ただ「お祭り」に参加してはしゃぎたかっただけ(私は祭り好きです)。

国際試合のスポーツ観戦の熱狂を愛国心と混同することには慎重であるべきだと思う。
スポーツを観戦しての興奮は、コンサートを観る興奮と変わらないと思う。実際、サッカーが好きで観戦する人は、自国チームに限らず、自分の好きな選手のいるチームを応援したりする。サッカーのワールド・カップは、本来は「一つのスポーツのイベント」なのだ。

愛国心から自国チームを熱狂的に応援する人もいるだろうが、そういう人は少ないと思う。愛国心というよりも、ただ自分の生まれた国だから、自分の出身国だから、という理由で「なんとなく」一定の国のチームを応援するのではないか。それは、自己アイデンティティの源泉に属する部分から発生する自然な感情だと思う。それなら、「国」という外的対象を愛するという愛国心とは違うのではないか。
そして、この「なんとなく」は、きっと何に対しても適用され得る。サッカーだけじゃなく、もし自国のラグビーのチームが強くて一般的に人気があればラグビーに、野球が強ければ野球に、またはバスケットボールに。スポーツ以外でも、自国のロボット研究チームが世界コンクールで一位になったら「なんとなく」誇らしい気分になったりするだろう。
サッカーはポピュラーで多くの人がとっつきやすいスポーツで、ワールド・カップはその最も大きなイベントだから余計に人をひきつける。経済的な利益を見込んだ企業や団体が力を入れることもあって、広く宣伝される。そして、特別にサッカーが好きなわけではないけれどそのイベントに参加する大衆がいる。そういう人たちが「なんとなく」自国チームを応援する。そして、その「なんとなく」の感情は、無意識に、愛国心とか国民的感情と混同される。応援する人自身も、その周囲も、時には社会分析を試みる人たちも、そのイベントに国民的行動、国民的心理の現象を感じとる。そして、サッカーの国際大会で、ある選手が注目を集めた事件が、シンボル化され、国家の精神や社会の問題の解釈に用いられる。

私は、自国チームを応援する興奮を愛国心であるとか、国民的感情であると考える前提自体が、ある種の危険性をはらんでいると思う。それは、「なんとなく」熱狂する人たちが、それを愛国心とか国民的感情であると見間違うこと、または勘違いさせられることで、国家を軸とした他人との結びつき、他人との同一化を無邪気に無批判に無根拠に無意識に信じてしまう危険性だ。そして、国家権力がそれを利用することはあり得る。現に、フランスの首相や大統領が、フランスチームの勝利にフランスの現政府を比したり、国の底力を見出させようとするような演説を行った(これに対して、リオネル・ジョスパンが批判している)。
とはいえ、レ・ブルーがフランスの多様性を反映している、という解釈は、間違ってはいないと思う。サッカーの代表チームに、その国の社会の一部を読み取ることは可能だと思う。しかし、それが社会全体を表現するもの、社会全体のシンボル、社会全体の縮図だとは思わない。そして政治的な利用は、内容よりも、発言者が誰であるかに関わる問題でもある。

その熱狂を、「大衆の熱狂」と言っていいように思う。
それがどこから来て、何に対する熱狂なのか、考えてみることは無駄なことではないだろう。
それは、愛国心ですらない、と、私は思う。
ワールド・カップの盛り上がりにナショナリズムの台頭を予感する人もいるそうだけど(そして、私も似たようなものを感じたことがあってモヤモヤと悩んだ)、その前に、先に言った前提を考え直してみるべきではないか。

更に付け加えて言うならば、全部は賛成できないが、ル・フィガロの哲学者は妥当な見解を提示している。メディアと連動した世論の移ろいやすさ、大衆の軽薄さ、無責任さは否めない。今回のワールド・カップとその後を通してそれを再認させられたように思う。そして私自身もその大衆の一員であることを痛感させられた。それは自覚しておくべきことだと思う。
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コメント
こんにちは。ここのところのShibaさんの意見には本当に同感です。
>愛国心というよりも、ただ自分の生まれた国だから、自分の出身国だから、という理由で「なんとなく」一定の国のチームを応援するのではないか。それは、自己アイデンティティの源泉に属する部分から発生する自然な感情だと思う。
ですね。私もそうです。
国単位ということであれば、F1だってツールドフランスだって全部自分の生まれた、あるいは関連する国を応援してますもの。
なぜ?ときかれれば、私にとってもやはり「なんとなく」のほうが「愛国心」よりしっくりきます。
日本人の愛国心は複雑ですね。正面切って国を愛しているということを躊躇する感情は何なんでしょう。
主人がフランスを愛する気持ちと私が日本を愛する気持ちは変わらないはずなのに、私は愛国心という言葉をいうことを躊躇しますね。
日本政府が「愛国心」という言葉を頻繁に使うようになっています。瞬間的に身を固くした私は戦後の生まれだというのに、ある種の独特なイメージをこの言葉にもっているんですね。複雑です。日本がどこに行こうとしているのかも気になります。
そして「愛国心」という後ろ楯の言い訳を背にフーリガンたちが我がもの顔に暴れることもできちゃったりするんですよね。
私はサッカーをほとんど見ませんがツールドフランスが大好きで見ます。日本人が出ていないから、自分の応援する国への感情に悩まなくてすみますが、これは「愛国心」じゃないよなーとあらためて思ったりします。「なんとなく」でいいんじゃないかなと思います。非国民っていうのは物理的に国籍がなく住んでもいない人をさすだけで十分じゃないでしょうか。ね。そこに加味する意味などなくても。
【2006/07/23 03:17】 | oeuf #- | [edit]
oeufさんとは教育環境に共通点があるのかもしれないですね。もしかしたら同世代とか。
「愛国心」を肯定しようという傾向は、「愛国心」を抑圧してきたことに対する反動なのかな?と思いますが、敗戦のトラウマによる抑圧が大きかった分、その反動がある一線を越えてしまうのではないかという不安がつきまといます。「反動」というのは、自ら発生する場合以上の力(そしてそれはおそらく余分な力)を生じさせることがあるように思うので。

ツール・ド・フランス、最終日は旅行中ですっかり忘れていました。電車の中で、車掌さん(?)がスポーツ新聞を読んでいたバックパッカーと「またアメリカ人が勝ったねえ」と世間話をしていて気がつきました。マラソンとか自転車競技とか、淡々と走っているのを見ているだけなのに何が楽しいんだろーと子供の頃は思っていましたが、静かなサスペンスがあってついつい目が離せなくなっちゃいますねー。それに、ツール・ド・フランスは、フランスの色々な自然の景観が見られて目の保養になりますよね。
【2006/07/27 23:25】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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【2007/03/24 00:33】
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