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「ジダンの行為、サッカー的一致の粗暴な感情の高ぶり」

 2006-07-14
サッカーとワールド・カップにまつわる考察、第二弾。の前に、昨日のル・フィガロのOpinion欄に載っていた記事を紹介。
「Le geste de Zidane, paroxysme brutal de la communion footballistique」 par Robert Redeker
ル・フィガロは有料化が早いので、すぐリンクが切れちゃうかもしれません。

筆者はトゥールーズ郊外の高校で教師を務める哲学者、レ・タン・モデルヌ編集委員。

記事は、あー、なるほど、レ・タン・モデルヌですか…って感じ。(浅はかながら。)これに関する感想は、また別のことも交えて…というか別のことに交えて、後で書こうと思います。

というわけで、以下、訳です。

※( )内は原文通り、〔 〕内は訳注。



「ジダンの行為、サッカー的一致の粗暴な感情の高ぶり」ロベール・ルドゥケール

明らかに、ジダンのトラブルは「何でもない」。実際に「真実の」問題であった天使の性別よりつまらないことだ。天使の性別について議論すること*は、人間と神の本質について高度な思弁を働かさせた。反対に、国民の生活を、サッカーを軸として展開させること、そして一人の選手の無分別な行為について公の議論を集中させることは、どういった点で「虚無」が我々の社会の中心に定着したかを物語っている。チェコの哲学者、カレル・コジークは、空虚の中に現代世界の禍を見た。彼によれば、それは、中世の人々がペストと闘うのに苦労したのと同じくらい、我々が闘うのに苦労している禍である。空虚は21世紀のペストである。サッカーの――スポーツ全般の――中心性は、ペストに対抗する困難さのしるしと同じくらい、空虚の病(ニヒリズム)の兆候を表している。「何でもないこと」:ジダンの頭突きはクレオパトラの鼻ではない。歴史の局面を変える可能性をもつ、あの鼻では。

とはいえ、このつまらないことが重要性をもつ。発展した現代社会は、ばらばらの社会である。社会的また政治的関係は、その社会の中で構築力をほぼ失っている。我々は、神に見捨てられた孤独な社会に生きている。国家的機関は姿を消し、家族や学校はかつての役割をもう担わない。個人主義と仲間意識を連結させる社会の一つの型の特色を描き出しながら、共同体主義が増大している。
これらの細分を超越しつつ、ワールド・カップへの情熱は、フランス代表チームへの愛着とキャプテンのジネディン・ジダンへの愛情を出現せしめた。この情熱のなかに、集団的悔恨(バレスが表現したような、祖国のために真実の愛を捨てた悔恨)、後ろめたさと同じくらい、ある幽霊の一時的な出現、国家的傲慢さを認めよう。個人主義と仲間意識とは対照的に、ワールド・カップのようなイベントは、毎回、人間同士の結びつきの新しい型を見出す。それは伝統的関係にとってかわったサッカー的関係である。

社会学的に言って、サッカー的スペクタクルの最も注目すべき発展は、大画面モニターが享受する特別待遇に要約される。ワールド・カップの間、私はニュージーランドとオーストラリアにいた。地球の反対側のフランス同盟たちは、レ・ブルーの試合を観戦するため、所有地に大きなスクリーンを設置し、大勢の人を引き寄せた。分散していたフランスびいきの人たちは、これらのモニターの前に集まってひとつにまとまった。現代人は自分のうちで、自宅の食堂で、自分のテレビで、サッカーの試合を見るのを嫌がるのである。群集の中に混じってこのスペクタクルを観賞することに執着する。それは、他の人々と一緒になっているよりも自宅で孤独に観賞するときの方が、自分の応援するチームの勝利の価値が小さいからだ。コーラスグループの中でそうであるように、ひとつになる幸福、全体の中に完全に消滅して他の人々と歌う幸福は、スポーツの大イベントという機会に生じて消える結びつきの力を明らかにしている。コーラスと同じく、スタジアムの観客席上であろうと大スクリーンの下であろうと、個々人の全体への参加は身体を通る:一種の力が観客の身体すべてを横断する。すべての人を結合させ、サポーターたちの一団、国家の集団に相当するものとして体験された、新しい一つの身体を構築しながら。

サッカーの試合を観戦することは、だから「活動」なのだ。フィールドでの動き、ゲーム展開に並行して、もうひとつの動きが、スタジアムの観客席や大スクリーンの前で繰り広げられる。すなわち、細分化された何千という個人の結びつき、サッカー的関係の構築。サポーターの波の中へ混じることは、ひとつの錬金術を観察する機会を与えてくれる:数時間のうちに、ある結びつき、つまりサッカー的関係の出現と消滅。ということは、サッカー的関係は持続しない。それは消えやすいのだ!この不安定性によって、サッカー的関係は昔の帰属と異なっている:家族、祖国、政党、教会、労働組合への帰属!この関係のはかなさは、メディアの本質によって説明される。メディアなしではこの関係は成立しえない。この関係の主動力、メディアは、制度ではない。それは、教会や軍隊、家族といった、アルチュセールの用語によれば「国家のイデオロギー装置」、個人間に確固とした関係を結ばせるのに適した機械設備とは違う。制度・機構の目的は人々を持続的に、お互いにつなぎとめておくことである。メディアは、出来事に接合して、間もなく他のものに置き換えられるような事柄で自らを養っている。だからメディアが引き起こす関係は、出現したときと同じくらい素早く溶解するのだ。サッカー的関係は、伝統的関係を拡張させるのでなければ豊かにするでもなく、自らの脆弱さの上に発展する。それは、数時間のうちに伝統的関係のパロディをし、伝統的関係に取って代わることで終わるのである。

では、我らが現代的同国人は、マテラッツィに対するジダンの攻撃、彼流に暴力を正当化する行為を、何故非難しないのか?スポーツは、現代的同国人にとって、正当性の源泉になったのだ。政治には拒絶する崇高性を、スポーツやスポーツ選手に対しては喜んで承認する。そしてスポーツの分野では、まずいパフォーマンス以外なら何でも許される。洒落から程遠いスローガン、「ジダン・プレジダン〔プレジデント〕」は正当性の逆転、政治家の地位を奪ったスポーツ選手を表現している。ジダンはこのサッカー的関係の聖像であり、この宗派の偉大なる司祭である。ルネ・ジラールによれば、聖域における暴力の機能は、統一を保証し、人間の集団の融合的一致を維持することである。ジダンの暴力的な行為はサッカー的一致を通常よりもずっと長引かせる。あの暴行のおかげで、ジダンの姿を中心としてフランス人が一つになった融合が更に長く持続する。「何でもない」、真に重要なことはなく、しかしながらジダンの頭突きは、フランス人たちにもう少しだけ長く、他のすべての関係を代替する結びつき、社会的関係の亡霊、サッカー的関係を享受させてくれるのである。

訳注*「天使の性別について議論する」とは、フランス語で、「無駄な議論をすること」「つまらないことについて議論すること」の一表現。
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