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「連帯のフランスと自由主義的フランス」

 2006-06-20
先週、6月16日(web版は6月15日)のル・モンドの記事のひとつ↓
現在のフランス社会に顕著な二つの対立する立場について触れている記事。

右派と左派という政治的観点によるスタンスでそれぞれの立場をはかるのにはもうやや無理があるということで、「連帯のフランス」と「自由主義的なフランス」という二項を提示しています。

最初読んだ時なかなかおもしろいと思ったんですが…実際日本語に訳してみると…どうなんでしょう。
現在のフランス社会を分析していて、その視点がおもしろいというか、自分がぼんやりと感じていることに近いものがあるかな…という印象だったのですが。
訳してみると、いまいちクリアじゃないところがあるなーというのが私個人の感想。

以下、全訳をのせておきます↓


※( )は原文通り、〔 〕は訳注です。




連帯のフランスと自由主義のフランス

集団的希望、社会的・政治的連帯…こうした言葉は1936年の5月と6月のものであった。その「素晴らしき夏」から70年経った今、特に国際的政策に関して時に熱狂のあまりお人好しであった人民戦線のフランスと、もうじき始まる夏のフランスの対照は驚くべきものである。それは、更なる協同計画、多方面の社会的不安、個人主義の真のイデオロギーの台頭を前にしたずたずたの連帯。

二つのフランスを描く新たなる分水嶺は、国を横断する様々な亀裂に重なり合って現れた。二つのフランスとは、連帯のフランスと、時に自分のことだけしか考えない「個人-王様」のフランスである。勿論、国民の間では、寛容性と他者への気配りは、常にエゴイズムと無関心に対比させられている。しかし、1980年以来、新自由主義的観念の勝利が、個人主義に政治的・経済的正当性を与えた。

左派を活性化していた大いなる集団的希望の終息と相俟った新自由主義の確立は、フランスのちょっとした欠点だと以前は思われていたものの長所を見出させた。同じ時期、本質的価値が個人と金銭であるような社会の到来により、人道面におけるこの変化に悲しむ人々や政治的観点からこの変化を拒絶する人々の間に、連帯の欲求が強まったか再燃した。

つまり、一方で、自由主義的観念に傾くフランスがある。そのフランスにとって、個人とは、本質的概念であり、社会を最もうまく調整する競争者であり、侵してはならない有益なひとつの規則、市場の法則である。社会的権益の擁護または不平等拡大の拒絶、経済分野における国家権力の介入は、「時代遅れ」、時として更に「隠れ共産主義」という烙印を押される。憲法に記載された慎重な方針は、おずおずとした態度と進歩への拒絶のしるしである。家族関係・私的関係外での他者へのある種の無関心は、こうした考え方の必然の結果であることが多い。そのように白状したり認めたりされないとしても、そうなのである。

それに対して、連帯のフランスは排除に反抗し、世界においてもフランスにおいても不平等はけしからんと怒り、「フランス式」公共企業体を擁護し、自由主義的観念の経済優位を拒絶し、たまに往年の大いなる運動へのノスタルジーに満ちた「反社会」的な態度に埋もれてめちゃくちゃに動き回る。こうした連帯の活動家たちは、集団的政治参加の意欲を満足させるものを、もうその中に見出せないような政治に失望した者たちである。

連帯への欲求が潜在的に増大してきたことは、色々なかたちで感じ取ることができる。例えば、5月21日、エイズに侵された南の国々への国際的な連帯というただひとつのスローガンと共に、音楽と雨の中、約1万人がパリでデモを行った。同じく、オートルモン〔別のやり方〕出版社が、年刊となる「連帯ガイド」を初めて発行した(Anne Legrand, Bruno Manuel,「Ensemble, Initiatives solidaires en France, guide 2006〔共に、フランスで連帯した率先的行動を、2006年ガイド〕」、Autrement〔オートルモン出版社〕、320頁、18ユーロ)。

ヨーロッパに対する考え方、国際関係に対する考え方などにおいて、亀裂が見出される。この亀裂は政治的・社会的勢力、教会を貫いている。左派に関与することなしに、あるキリスト教徒たちは、「道端に」もっともか弱き者を置き去りにする教条主義を拒む。郊外において、右派の議員たちは、住民同士の強い連帯、そして国との連帯だけが彼らの地域を救い出すことができると知っている。同じく右派の話であるが、ある地元議員たちは、不動産の値上がりによる社会的損害を認め、市場だけが住宅への関わりを支配していることを遺憾に思っている。反対に、中道左派の一部は自由主義の警報に敏感である。特に「キャビア左翼〔成金左翼:社会主義を唱えながら、自らはキャビアを食するような贅沢をしている左翼〕」の場合がそうで、それはロラン・ジョフランが彼の著書「Histoire de la gauche caviar〔キャビア左翼の歴史〕」(Robert Laffont〔ロベール・ラフォン社〕)が強調した通りだ。

亀裂
この二つのフランス間の亀裂は、多分、1960年代と1970年代に右派と左派を対立させていた亀裂よりも更に深いものだ。当時、二つの陣営がそれぞれ違った考え方をもっていたとしても、両方とも一般的利益という名のもとに活動していた。現在、最もラディカルな、または最も誠実な自由主義者たちは、この一般的利益というものの存在さえ疑っている。彼らは、アダム・スミスの原理に立ち戻っている。アダム・スミスは18世紀のスコットランド人経済学者で、彼によれば、全てにとって最適な状況は、各自による個人的利益追求の自由な働きから得られる。

経済的自由主義の父は1790年に亡くなった。それはフランス革命が始まった一年後である。そしてフランス革命はまさに逆の政治哲学を築いた。1789年以来、フランスの全ての政治史は、共和国国家が一般的利益を表し擁護するという考えの上に構築された。この場合、一般的利益は個人的利益の総計から生じるものではない。ところが、最も急進的な新自由主義者たちは、サッチャーリズムの基底的観念の系譜の中で、このコンセンサスから脱している。

そういう背景があり、「自由主義のページ、自由主義的観点による現在」という名のインターネット・サイトが、あるテキストを表示している。そのテキストの著者、ジョルジュ・ランは次のように主張している。「メディア政治階級の人々にとっては、『社会』という曖昧な概念をもとにしてではなく(…)人間をもとにして理を説く人、また、人間は(…)一般的利益といわれるものではなく個人的利益の中で行動すると主張する人は、誰であろうと超自由主義者なのである。」この文章は、もう一人別の著者、特にハイエク・インスティテュートのサイトなどに現れている資産家の著者に呼応する。「鶏舎の中の狐」というタイトルで、フランソワ・ギヨーマは「自由放任は(…)個人的利益のために『社会』の利益を犠牲にしない」、なぜなら「個々の生物のための(…)利益しかない」と主張している。この文章は、全ての「政治権力」が「結局のところ、有害な権力、破壊能力に」立脚していることも断言している。

確かに、こうした文章が表現している過激な態度は、フランスの自由主義の全体と異っている。しかし、国家を問題にすること、更には政治活動それ自体を問うこと、社会に対する非常に個人主義的な物の見方などは、彼らの出発点の源泉であることは間違いない。

連帯と自由主義、二つのフランスに相関的な重要性を認めることは難しい。どちらにせよ、二つのフランスはもう理解しあうことができないし、話し合うこともあまりないのは確かだ。二つが合流するのは、多分、それぞれ異なった活用の仕方をするだろうが、両方が共に卓越している新しい技術の専有化においてである。それは、社会体の統一を培うためにはわずかなことでしかない。
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  • [本日の気になる記事]【SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS】
    以下本日ってわけでもないものも含めて。 「ハラワタガニエクリカエル」そうだ。http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060621/p1 ご立派ですなあ。点数稼いでマスネ。 トラカレさんより。 「連帯のフランスと自由主義のフランス」 http://hibinoawa.blog10.fc2.com/blog-entry
【2006/06/21 04:28】
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