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日本の国際的人権保護レベル

 2006-05-29
アムネスティ・インターナショナルが日本の人権保護レベルを批判、という記事がル・モンドに。

アムネスティ・インターナショナルは、日本が死刑を続行していることと難民受け入れを厳しく制限する政策を行っていることを非難したとのこと。

ル・モンドでも共同通信やロイター通信からの情報を元に、ほぼそのままのかたちで多少付け足しなどして記事を載せていることもあるのですが、この記事は東京在住の特派員、フィリップ・ポンスの手によるもの。ということは、ル・モンド独自の記事であり、世界を駆け巡る記事ではない可能性が高い?…とちょっと気になって、簡単に日本の新聞サイトをまわってみました。が、同内容の記事は見当たりませんでした。日本では報道されていないのかな?
(ぐぐった結果、総括概略的な記事はニ、三見つかりましたが、日本が批判対象になっていることはほとんど書かれていないようです。)

アムネスティ・インターナショナルについて、どういう団体かよく知らないのでウィキペディアで検索(その結果、日本語はこちらフランス語はこちら)。それによると、「和名は『国際人権救援機構』」だそうです。特に「良心の囚人」の解放、死刑廃止、拷問の廃止、政治犯罪の撲滅に力を注いでいるようです。そして、2001年にダカールで行われた彼らの国際会議で自らを定義したところによれば、「アムネスティ・インターナショナルは人権のために闘う人々の世界的な運動である。この団体は、公平な捜査と国際的権利に基づいた行為によって、人権侵害の被害者の名のもとに介入する。そして、全ての政府、政治的イデオロギー、宗教または経済的利益から独立している。」

「人権」というのは非常にデリケートでかつ難しい問題(なのでここで無遠慮に扱いたくない)ですが、それだけに広く議論がなされる(またなされるべき)問題なのだと思います。人権という概念が、フランスと日本でずいぶん違った扱いを受けていると感じていますが、その違いがこのル・モンドの記事に現れているのではないかと思います。そして、そういった違いがあるからこそ、ル・モンドでは記事になり、日本の新聞ではこうした見方で扱われないのかもしれない、と思いました。

要約するのが面倒くさかったので、全訳しました(多少意訳もあり)。
興味のある方はどうぞ↓


「差別についてアムネスティ・インターナショナルに名指しされた東京」

日本は人権について再び批判の的となった。アムネスティ・インターナショナルは、年次報告の中で、死刑実行を続けている事と難民に関する制限的政策を行っている事で東京を非難した。

「移民が多くの国(の地方)でその犠牲となる不安定さと脆弱さは、日本では馴染みのものだ」とアムネスティは続けている。更に、指紋採取と、入国する16才以上の外国人の写真提出を義務付ける措置は、反対派と日本の法学者の批判を呼び起こしている。

20060529012834.jpg日本の人種的偏見と差別について国連付き特別報告官であるドゥドゥ・ディエンヌは、東京訪問の際、この法の適用の仕方が気掛かりであると表明した。人権新評議会で審議される予定のこれらの措置については触れずに、ディエンヌ氏は「テロリズムへの闘いを口実に外国人を犯罪視する傾向」に対して警戒する構えをみせた。「外国人に指紋を提出することを義務付ける特別な法を採択することは、彼らを潜在的な敵であるとしてチェックするということになる」と説明している。

「文化的幻想」
移民についての法律審査の一環として記載された新法は、2001年9.11テロの後にアメリカ合衆国で採択された措置をなぞったものである。永続的住居者と外交官はこの措置から除外される。1980年代に日本在住の外国人を対象とした指紋押捺の義務は、激しい抗議を引き起こし、結局廃止された。

1月に発表された、日本における人種的偏見と差別についての報告を著したドゥドゥ・ディエンヌによれば、政府が第一にやるべきことは、これらの実行の存在を認めること、法――今のところまだ現れていない――を提案し、あらゆる差別を禁止して、これらを根絶するという政治的意志をみせることである。

差別的扱いの被害者として、北海道の少数民族であるアイヌ、歴史の途上で隔離の対象となった「特別部落の住民」、また、「日本のアメリカ軍基地がその諸島に極度に集中したために騒音や公害を被った」沖縄(南方の諸島)の人々が挙げられる、とディエンヌ氏はみている。

「差別と闘うためには、均一な民族・文化であると仮定された幻想と縁を切り、国家はその現象の歴史的根源に立ち戻らなければならない」と彼は付け加えた。「少数派を沈黙に押し込め、差別が芽生えるのは、国のアイデンティティについての偉大な物語の中である」とディエンヌ氏は続ける。「歴史への地域的アプローチ――日本人たちと隣国人たちの見解のたまものとしての――と結びついて、日本のアイデンティティの多文化的性質を取り戻すこと、それは、日本と隣国の関係を悪化させる歴史的論争や差別の広がりを食い止めるための大いなる一歩となるであろう。」
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コメント
うーん、難しい問題ですね。日本ではいま被害者の人権という問題に注目が集まっていて、山口でおきた母子殺害事件などもこの点で議論をよんでいます。
だからアムネスティの考えなども日本の文脈に置き換えると被害者の人権という視点が欠けているのではないか、という批判を浴びるのかもしれません。
アムネスティは独裁国家における政治犯の死刑と山口の事件のようなケースを単純に同列あつかいするのではなく、むしろなぜ死刑制度が無条件に人権の侵害にあたるのかという点についてもっとラディカルな議論を提起すべきなのではないかとおもいます。
正直にいうとわたしも山口のケースは死刑もいたしかたないと思っています。
【2006/05/29 10:34】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
どんな罪に対するものであろうとも、死刑執行の権限は国家に属していますからねえ…。(殺すのは国家。)
自分がもし遺族だったらどうだろうか…と考えると、犯人に死んで欲しいくらいの憎しみをもつかもしれない、と思いますが、その可能性自体がすでに重苦しく、辛いです。アメリカにおける死刑についてのルポをTVで見たことがありますが、死刑執行を見学した後、「yes!」と叫んで喜ぶ遺族がいました。精神的にちょっといっちゃってる感じでした。その姿に嫌悪を感じるとともに憐憫の情にも誘われ、なんとも複雑な気持ちにさせられました。ひとつだけわかることは、自分はそうなりたくないと思う、ということ。
死刑については、そういう内省的な方向だけでなく、もっと他の観点からも考えるべきだろうとは思いますが…。

ところで、このポンス氏の記事は、最後の方で、東アジア諸国間関係の問題が浮き出てきますね。ざっと読んだときにははっきりと意識しませんでしたが、訳してみて気がつきました。でも、フランス人にはそんなことわからんだろうな。ということは、日本人たちこそが自問してみるべき問題といえるかもしれません。そう考えれば尚更、日本のメディアで取り上げられなかったのは残念なことだと思います。
【2006/05/30 23:39】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
わたしも若い頃は死刑廃止論者だったのですが、年をとるにつれその考えを覆す事件が増えています。山口の事件はその考えを決定的なものにしたかもしれません。妻を殺された後レイプされ、死んだ母親に這って行く赤ん坊を床に叩きつけて殺された夫はあくまでも冷静に成年に達したばかりの犯人が出所してきたら自分の手で殺すと明言していました。
犯人は当初まだ更正の可能性があるとして無期懲役の判決が下されたのですが、獄中から知人にあてた手紙がその可能性が皆無であることを決定的にして、6月にでる最高裁の判決では死刑の可能性がでています。
手紙のなかで犯人は「無期懲役も七八年すれば出てこれる、オス犬がメス犬をやっちゃうのが罪でしょうか?男は女を追い求める。これ自然の摂理ね。」などとうそぶいています。この犯人が死刑にならず外界にあらわれ被害者の夫が彼を殺し、殺人罪に問われたとしたらそれは国家の怠慢だとおもいます。
プラトンもいうように更正不可能な人を国家が死刑に処するのはその人のためなのかもしれません。
【2006/05/31 01:57】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
終身刑ではダメだということでしょうか。でも、出所させなかったらいいんじゃないかと思いますが。

反省しないから殺す、というのはやっぱり憎悪以外のなにものでもないと思います。道徳的悪に対する憎悪を、正義の名の下に断罪して殺人行為(死刑も殺人)に転換することには、なにかひっかかるものを感じます。

それから、更生不可能かどうかは断定できないと思います。(でも、70歳とかだったらやっぱダメかなあ…。)不可能だったら一生刑務所で働いてもらうか。
更生不可能だと思われるような犯人が頻出しているという現状は、死刑では解決されない問題なのではないかと思います。

憎悪を抱くのは簡単ですが、それをどのように解消するかは難しいなあと思います。最近、憎悪が事態を悪化させていると感じ、「憎悪」は自分の中でちょっとキーワードみたいになっています。
【2006/06/01 23:13】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
ここで書き込みしながら自分なりに死刑が是認される哲学的根拠を考えたのですが、その根拠のひとつは死刑が行われることによって罪人に「死をあたえる」ことが可能になるということにあるのではないでしょうか?贈与としての死ということです。
それは憎悪とはまったく別の問題で、むしろ最大限に罪人のことを顧慮しているというべきでしょう。つまり死刑を宣告された瞬間に、罪人はこれまでとまったくちがう人生観ないし世界観をあたえられ百八十度生きる態度の変更をせまられることになるからです。それがどれほど短い期間であれ、ひょっとするとそれは何事もなくすぎる八十年の人生よりも充実したものかもしれず、終身刑のような飼い殺しとは比較のしようもありません。罪人にとっては最大の罰が最大の贈物でもあるということです。
【2006/06/02 02:41】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
うーん、贈与としての死ですか…。
他の人間に死を与える権利があるほど人間(国家も人間の作った装置だと考えて)は偉いのだろうか、と思ってしまいます。私にとっては、死刑について考えるとき、それが一番の核心的問題です。

まあ、それは自分がフランスの空気(イデオロギー)に慣れてしまったこともあるかもしれませんがね。フランスでは死刑が廃止されており、死刑の復活を公然と願っているのは今のところ極右だけです。
【2006/06/04 02:28】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
おそらくわたしがこのように考えることの根底には日本人の死に対する観念が横たわっているのだと思います。モーリス・パンゲの著作をまつまでもなく死の観念はその国の文化に属する問題だとおもわれます。
ですから「人権」という思想的グローバリズム(じつはローカルな発想なのかもしれません)をもって日本を批判することはもうひとつのエスノセントリズムというべきなのではないでしょうか。

>>他の人間に死を与える権利があるほど人間(国家も人間の作った装置だと考えて)は偉いのだろうか

なるほどたしかに国家は人間がつくった装置にすぎません。しかし、と同時に「人権」という思想も人間が人間のために自分でつくりだしたきわめてご都合主義的なフィクションにすぎないのではないでしょうか。
【2006/06/05 01:51】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
フランスが自らを「人権発祥の国」であると誇りにしていることを見るにつけ、「人権」が普遍的なものではないことを考えてしまいます。ですから、「人権」の具体的な基準を他国に当てはめることは思想的グローバリズムと無縁ではないと思います。その点では、全く同感です。

しかし、だからといって、日本の人権基準が現行で正しいと断言してしまえるものかどうかは疑問です。
私自身は、日本である種の居心地の悪さを感じていましたが、それは多分死刑制度を擁護する思想構造に関係していたと思います。

上の記事で言われていることは、死刑制度のことではありません。特に外国人の入国管理に関することであり、日本国内の差別についてであり、太平洋戦争時に強化された「単一民族国家」という幻想への批判であり、近隣国との関係への配慮を促すものです。しかし、そうした排他的な面が死刑制度につながっていると感じなくもないです。
外から来るものは内の均衡状態を乱すから悪いものであるし、悪いものは切り取れという外科手術的な考え、プラトンなんかはそうですね。

人権というものがイデオロギーであるというのは、私自身そう思っている旨、先に触れましたが、「ご都合主義的」であるかは、各自の解釈だと思います。と同時に、すべてのイデオロギーは「イデオロギー」である以上、そう解釈される可能性を常に孕んでいると思います。

死の観念が文化と密接に関係しているということは同感ですが、文化も人間が作るものなのではないでしょうか。私は、その文化が宗教を基盤とするものだとしても、そうだと思います。それが人間の本質から出たものだ、とういのであれば、国によって文化が異なることが民族主義・人種主義に帰せられる恐れがあります。そして、そう信じているうちは、文化を変えることができないし、変わらないからやっぱり人間の本質だと結論づけることになるかもしれません。
文化が昨日今日できたものでない以上、変わっていくのにも時間を要するとは思いますが、だからといって全く変わらないものだとは思いません。

「人権」が人工的なものであるということからは、「人間は他の人間を殺す権利があるほど偉いのか」という私の疑問はとけません。多分、一生とけないでしょう。
【2006/06/05 12:24】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
わたしがむしろ疑問におもうのは「人間は他の動物を殺す権利があるほど偉いのか」ということです。なぜ人間の生存権だけが特権的に認められなければならないのでしょうか。「人権」の思想からはこの問いに対する答えがでてきません。「人間が他の動物を殺す権利」をもつというのであれば、動物の一種族である人間もその範囲に含まれてしかるべきなのではないでしょうか。
結局「人権」とは「人間中心主義」の別名であり、地球規模で進む自然破壊と同じ根をもつ発想のようにおもわれます。

>>国によって文化が異なることが民族主義・人種主義に帰せられる恐れがあります

よくわかりませんが、わたしの理解では「国によって異なる文化」を単一のそれに解消しようとすることこそがエスノ・セントリズムにつながるのではないでしょうか。
たとえば芸術が人間の本質からでたものだとしても、それがおなじ表現をとらなければならないということにはならないとおもいます。それと同様に宗教や哲学が同一の表現をとる必要はまったくないとおもうのですが。
【2006/06/06 03:29】 | #- | [edit]
↑名前がありませんが、pianomanさんでしょうか。

引用された文、そこで切られているとたしかに意味がわからないですね…。読点の打ち方が悪かったでしょうか。っていうか、文章自体が悪かったか。
言いたかったことは、つまり、固有の文化が民族の本質として生じてきたものだと主張した場合、本質だから変わらない、その文化がその民族に生まれつきのものだということになって、民族主義・人種主義になったりする恐れがあるのでは、ということです。そして、そういう考え方が下地にあった場合、国によって文化が異なる事実が、民族の違い・民族の本質の違いと考えられ、民族主義・人種主義になる恐れがあると思うということです。
全ての文化が単一になるべきなどとはこれっぽっちも思っていません。

国際的な人権保護団体の批判がエスノセントリズムに感じられるというのは、私も上に述べた通りで、否定しません。
しかし、だから省みる必要がないと門前払いし、「他から言われる筋合いはない」という頑なな態度を取り続けるとしたら、それはエスノセントリズムの被害者であることを通り越して、自国の文化を固持する排他主義になりえるということが不安なのです。
【2006/06/06 12:17】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
無記名になり失礼しました。ひとつまえの書き込みはわたしです。いつもと違うマシーンから書き込んだもので。

おっしゃる趣旨は理解できたのですが、やはりわたしからすると近代的な発想なのではないかとおもわれます。

>>文化が昨日今日できたものでない以上、変わっていくのにも時間を要するとは思いますが、だからといって全く変わらないものだとは思いません。

まったく同感です。ただしそれは必ずしも欧米人の望む方向ではないかもしれません。このばあいにshibaさんが「変わる」というのはやはり「近代的人権感覚」をもつ、という方向を暗に示しているものとおもわれるからです。それは「変わる」というよりはむしろ「作り変える」という表現の方が適切なのではないでしょうか。

>>しかし、だから省みる必要がないと門前払いし、「他から言われる筋合いはない」という頑なな態度を取り続けるとしたら、それはエスノセントリズムの被害者であることを通り越して、自国の文化を固持する排他主義になりえるということが不安なのです。

アムネスティの支部は日本にもありますし、この運動を支持する人は国内にもたくさんいます(子供の頃よくテレビでみたイーデス・ハンソンはアムネスティ日本支部のスポークスマンでした)。しかし彼らがこの運動のためになにか暴力行為をうけたという話は聞いたことがありません。
わたし個人に関していえば、アムネスティの人たちはりっぱだし尊敬はしますが、廃止論を説く根拠がすでに述べたように疑わしくなってきているなかで、いつまでも昔ながらの理論でいいのだろうかと思うわけです。
彼らをみていると子供のころに読んだシュバイツァーやリヴィングストンの伝記を思い起こします。いま彼らが無条件に「偉人」の仲間入りをできるのかというとそれは難しいのではないでしょうか。
【2006/06/07 03:09】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
近代的な発想というのがどう定義されるのかわかりませんので、仰る通りなのかもしれません。

人権をめぐる話になりましたが、実際に人権とは何か?と問われたらわからないので、便宜上この言葉を使っていますが、本当は人権という語に近づきたくないのが本音です。
そういう状態でよくまあ話していたもんだ、と思われるでしょうが。

本文中でも書きましたが、私は「人権」について不用意に語りたくありません。というのは、「人権」がどういうものかわからないからであり、それについての立場(賛成か反対か)をとりかねているからであり、全ての人に共通で認識されているひとつの「人権」があるのかどうか自信がないからであり…といったところです。
日常では、話の相手がどんな「人権」を意味しているのか汲み取り(というか感じ取り)ながら、その都度賛成だったり反対だったりという、いまだ一貫しない態度をとっています。

前置きが長くなりましたが、そういうわけで、欧米の人権思想をそのまま取り入れろと言いたいわけではありません。人権という言葉が日本の国内から生まれたものでないとしても、日本には国内で共通に認識される「人権」があると思います。
しかし、その「人権」がどのようなものと認識されているのかがちょっと疑問です。それは、先に書いたように、上の記事で問題にされている入管法のこと、単一民族という幻想がまだあるとういこと、それらが日本における人権の認識に無関係ではないのではないかと思うからです。

日本の人権がどんなものへ近づくか、と考えたときに、その方向性が現在の欧米的人権に一致するかもしれません。しかしだからといって、逆に欧米人の望む方向へ近づけるべき、とは思いません。
日本に「人権」という概念が全くないのであれば話は別ですが、もしあるのなら、日本のそれをどのように練り上げていくか、どのように問題にしていくか、が重要だと思っています。

それと、「門前払い」云々は、言説のことで、物理的な話ではないです。

アムネスティ・インターナショナルがどうだ、人権がどうだという話は、正直言って、私にとってここではそれほど問題ではないのです。私が気になっているのは、上の記事で指摘されている日本国内の具体的事象と、日本人自身がそれを考えてみるかどうか、ということです。某所での反応もみてきましたが、結局誰が発言したかばかりが問題になり、内容について語る必要もないという雰囲気でした。
それはちょっと残念なことだと思います。
【2006/06/07 12:41】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
↑でも、もしかして、記事中で指摘されている事柄に反応するのは「欧米的思想」とか「近代的人権思想」の側にいるからで、全く問題に感じないのが日本の標準なのかな…。
【2006/06/07 13:10】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
もしかすると日本には永久に「人権」という概念は根付くことがないのかもしれません。それは日本にキリスト教が根付くことがないのとおなじ理由によるのではないかとおもわれます。だから西欧社会が日本人に「人権」を説くことは原罪の意識もなければ被造物感ももたない人間にキリスト教を説くのとおなじくらい虚しい試みなのかもしれません。
【2006/06/08 02:18】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]












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