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グラン・パレの特別展:「Melancolie - Genie et folie en occident」

 2006-01-09
グラン・パレで開催中の特別展、「メランコリー」展に行ってきました。

入館するまで長蛇の列。人気があるとは聞いていたけれど。屋外で約1時間並びました。今日はあまり寒くなくて助かった~。

一定の時代や作家に絞った展覧会ではなく、「メランコリー」というテーマによって構成され、紀元前5世紀に溯るギリシャ時代から現代に到るまでの流れを汲んだ展覧会なので作品数も多く、たっぷり3時間かけてまわりました。

私は、「メランコリー」の概念の変遷と、それに沿って紹介される絵画を観賞するという観点を軸にみてまわりました。
個人的には中世から19世紀末にかけての辺りが面白かったです。

以下、メランコリー展サイトのParcours de l'expositionのページを参照しながら、メランコリーの変遷を記述。


紀元前5世紀、医学の始祖・ヒポクラテスは4種類の体液の調和によって健康であり、このバランスが崩れると病気になると考えました。その中で黒胆汁は不安定で最も危険なものとされ、これが「メランコリー」の元であると考えられました。また、アリストテレスは「哲学、政治学、詩や芸術に関して異才な人たちが明らかにメランコリーであるどういうわけなのだろうか?ある一定の人々が、黒胆汁が起源である苦痛にとらわれているのは何故なのか?」(Probleme XXX)と述べており、メランコリーと学問、芸術を結び付けています。
20060110031458.jpg3世紀末には、キリスト教において、自制不可能な思考による誘惑と虚脱に負けることが問題となります。この虚脱は「accedie」「acedia」と呼ばれ、大罪のうちのひとつである怠慢の原因とみなされました。acediaというタームはこれ以降、中世を通して用いられたようです。また、中世においてキリスト教絵画は憂愁と苦悩の像を多く産出し、左手で頭を支えるようなポーズが描かれました。このポーズがメランコリーを表す典型的なポーズとなったようです。
ルネッサンス時代、天文学は惑星と体液の関係を構築、その中で土星と黒胆汁が関連付けられました。土星は有害な影響を及ぼすとされ、社会の枠外に生きる人たち、特に芸術家たちは「土星の子ども」と位置付けられました。他方、ダンテは「神曲・天国篇」で、土星を瞑想と知恵の惑星として言及しています。また、土星はsaturne、つまりローマ神話におけるサテュルヌス(ギリシア神話におけるクロノス)でもあります。サテュルヌスは、自分の子どもがやがて自分を殺して後を継ぐという運命を恐れ、生まれた子どもを次々に喰らいました。今回の展覧会にはありませんでしたが、ゴヤの描いたサテュルヌスは有名。
20060110031602.jpg1621年、ロバート・バートンが「憂鬱の解剖(Anatomy of Melancholy)」を出版し、医学的な概念としてのメランコリーが再度扱われるようになります。しかし、芸術面ではメランコリーの主題は「孤独」や「瞑想」しか暗示しなくなってきます。
18世紀、啓蒙の時代に到って、メランコリーは狂気へと分類されるようになりました。いまや非宗教的となった知にとってメランコリーは精神の病であり、病院で扱われることになります。
20060110155002.jpg1758年にジョゼフ=マリー・ヴィアンによって描かれた「La Douce Melancolie」には、女性がメランコリー特有のポーズをとりながらも、明るい部屋の中、苦悩や憂愁の影が全くない表情を示し、骸骨の代わりに白い鳩を手にしており、この時代のメランコリーが「瞑想」を意味し、必ずしもネガティブにのみ受け取られていたのではないことが伺えます。
ニーチェに宣言された神の死により、信仰によって保証されていた世界の歴史が終わり、人間は孤独の刻印を受けました。20060110031710.jpg絶望的な現実の逃避から、メランコリー的な態度は世界の否定へと変貌していきます。そして、acediaというタームが含むすべて、つまり悪魔や悪夢、誇大化された狂気などが、芸術の中に現れてきます。しかし、以前のように信仰のために誘惑と闘うことではなく、ただ不幸と人間の状況を耐え忍ぶことを意味するようになります。
19世紀初めから、メランコリーは精神医学の中で第一の研究対象となってきます。フロイトは「悲哀とメランコリー」という論文を1917年に発表しています。この中で、メランコリーは病気として扱われていますが、精神医学の発展の中で「メランコリー」という語は病名としては用いられなくなります。
20060110031901.jpg20世紀、社会主義国家の終わり、冷戦を経て、メランコリーは深刻化してきました。現代、メランコリー展はこう問いかけます。「〔…〕歴史の革命的な新しい計画のパラドックスとして、メランコリー(そして喪の仕事)を含むユートピアを、われわれは想像することはできないであろうか?」

(1月10日一部加筆)



個人的感想を付け足しますと、正直に言って20世紀以降の解説がよく理解できず…。いわゆる「大きな歴史」の終わり、ってやつに関する話ですが。その辺、明るくないので。また、展覧会の最後の部屋(現代の部分)はいまいちピンときませんでした。それは、やはり自分の興味がメランコリーと精神病の関連にあるからだと思います。メランコリーの話が精神医学から離れてしまったところから先はあまり…。
Goya_cronos.jpgそれから、サテュルヌスの子ども喰いの話、結構好きなのですね、私。ゴヤの絵も好きです。オトロシイ絵ですが。ラカンがサテュルヌスに関して何か言ってて、それでこの神話を知ったのですが、何を言っていたか忘れてしまいました(とほほ)。オイディプス・コンプレックスに関することでしょうね、多分。サテュルヌス・コンプレックスだったか??そんな薄い記憶もあり、サテュルヌス関連にはピンとアンテナが立ってしまいました。
あと、やっぱり啓蒙時代の理性の君臨という流れですね。メランコリーが狂気に分類され、以降、医学の分野で扱われるという。フーコーです。
でも、結局、自分の中のおぼろげな知識がぼんやりと刺激されつつ、これといった関連性を見出して、今回の展覧会の中の作品を語る、というところまで到達しませんでした。そういう意味では、自分の中でもやもやとしたものが残る展覧会ではありました。
いや、とっても面白かったんですけどね。
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コメント
「〔…〕歴史の革命的な新しい計画のパラドックスとして、メランコリー(そして喪の仕事)を含むユートピアを、われわれは想像することはできないであろうか?」

おそらくこの歴史の革命的ユートピアに対する断念から埴谷雄高の文学は出発しているのでしょう。つまりユートピアは文学(『死霊』)のなかにしかありえないという「妄想」です。
個人的には埴谷のようなカント=ドストエフスキーとは違った路線がありうるのではないかとおもうのですが。
【2006/01/10 07:46】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
こんばんは。 この間コメントを遅らさせて頂いてRiriです。
ぜひ教えて欲しいんですけど、ドヴィルパン首相って、フランス社会で

どのくらいの人で、どういう家族構成なんですか? どこに住んでるんですか?教えてください!!
【2006/01/10 15:56】 | Riri #- | [edit]
>pianomanさん
いやあ実は、引用した文章、訳していても全然意味がワカランのです…。

>Ririさん
ウィキペディアに彼の項目がありましたよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%EF%BC%9D%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B3
でもフランス語版の方が詳しいので、もし出来ればそちらを読んだ方がいいかもしれません。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Dominique_de_Villepin
子どもは3人いて長女はモデルさんです。
首相が住んでいるところはマティニヨン舎(首相官邸)ではないでしょうか。
【2006/01/10 16:33】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
ミュンスターでサクサクと勉強しているsaisenreiha さんは、ボッシュの怪物とかは、当時の人間にとっては今のハリウッド映画とおんなじ様な娯楽だったんじゃないかと言ってた。これも面白いです。
http://d.hatena.ne.jp/saisenreiha/

あと、ド・ヴィルパンの娘は学生でモデルはバイトみたいだよ。父親そっくりです。父親の方は身長192cmだそうだが。
【2006/01/11 01:52】 | 猫屋 #- | [edit]
ここではおそらく革命的「ユートピア」は死者になぞらえられているのでしょう。20世紀の歴史(スターリニズムに代表される全体主義)のなかで革命的「ユートピア」は死んでしまったのだと。
ご承知のように「喪の仕事」は心理学の用語で、死者に対する喪失感を修復する精神の過程を指し示しています。同様の精神のはたらきが死者としての「ユートピア」にも適用できないだろうか。現代に生きるわれわれはユートピアを喪失してしまったが、この喪失感を修復する精神の作用そのものがあらたなユートピアたり得るのではないか、というのが趣旨ではないかとおもわれます。
【2006/01/11 12:38】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
>猫屋さん
ボッシュの絵って見る機会がなくて、実物を沢山見てみたいなあと思っています。フーコーならびにラカンのテキストの中にも出てきます。後者はアルトーの「器官なき身体」に多少関係した話だったかな。
と、今確認したらフーコー「狂気の歴史」に出てくる「阿呆船」はルーブル所蔵でした。
地獄や悪を描くときに動物的な形態を用い、天上画を描く時には神や天使が人間の姿であるところに、人間対野蛮という構図が精神上にあったように感じてしまいます。

上記リンクのウィキペディアによると、ド・ヴィルパン長女は学業はやめた模様。休学かもしれませんが。暮れの大河ドラマ「Roi maudit」に出ていたそうな。

>pianomanさん
なるほど、なんとなくわかったような気がします(←断言できないところが弱い…。)
しかし、具体的にはやっぱりつかめないというか。
とにかく、そこで間違って懐古趣味思想に陥るのだけは避けなければいけないなあということは感じます。
【2006/01/11 22:06】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
まあ「懐古趣味思想」ももうひとつのユートピア思想というべきなのでしょう。ユートピアの原義は「どこにもない場所」なので、具体化したユートピアというのは形容矛盾なわけです。
いずれにせよ人類はユートピアという思想なしには生きていけない生き物なので、この記事の筆者が思っているように簡単に死んだりすることはないでしょう。
むしろおそろしいのはユートピアの追求が逆ユートピアに行き着くということであり(記憶に新しいところではオウム真理教も「シャンバラ」という名のユートピアを追求していました)、今後いくらでもこれが繰り返される可能性がある、ということなのだと思います。
あ、またペシミスティックになってしまいました。
【2006/01/12 02:04】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
えと、具体的につかめないのは文章及びメランコリー展最後のページのテキストの意味です。

いやあ、ペシミスティックというより、熟考とは慎重さや危惧を伴なうものだということではないでしょうか。
【2006/01/14 00:10】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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