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フィンケルクロートのインタビューに思うこと・その2

 2005-12-05
フィンケルクロートのインタビューの中でひとつ気になったのは、彼が郊外の若者たち独特の言葉を批判し、それを「フランス語は征服(reconquerir)しなければならない」と述べていることです。
「征服」と訳したのは正確ではなかったかもしれません。ですが、言語(言論ではなく)の統制は征服・支配になかなか有効な国家的手段であると私は考えるので、この訳語を使いました。(この考え方は一般的によく知られた考え方だと思います。)言語を統制するということは、ある集団内で流通している彼ら独自の「コード」を解体することで集団の枠を解消し国家へ吸収するための一つの方法ではないでしょうか。
フィンケルクロートは郊外の若者たちの話し言葉が「つっけんどんで単純化されたわけの分からない言葉」であるとしていますが、それは欲望の対象への途上で現れる障害物を嫌い、破壊や無視などの簡単な手段でそれを取り除こうとする現代の若者たちの傾向と無関係ではないと考えているようです。つまり、思考の仕方と言語とに関連性をみている。彼はフランス語をニュアンスのこもった美しい言葉であると考え、フランス語を彼らの間に復権させることで精神的な教育を同時に行うことを期待しているようです。しかしそれ以上に、彼の言葉遣いから感じられるのは、若者たちの言葉を国家が正しいと認めるフランス語へ「矯正」することで、彼らを「統制」「征服」しようという考えです。

サルコジ内相の言葉の中にもこれに近いものを感じます。11月25日のル・フィガロに掲載された「アファーマティヴ・アクションによって現実的な機会平等が訪れる(L’egalite reelle des chances passe par la discrimination positive)」と題した論説の中でサルコジ内相は次のように述べています。「同化と向上への、〔失業率が高く困難を抱える郊外の〕居住者たちにとって信頼できる展望が欠如しているため、こうした地区では、彼らは独自のコード、独自の規則、独自の言語までもを使って、自分たちの中に閉じこもり、反-社会の中に逃げ込む傾向があった。彼らは次第に私たちから離れ、組織化されるようになった。」
つまり、特定の集団内でしか通用しない言語は「コード」となり、それを使うことでコミュノタリズム(共同体主義)が助長されている、と。

たしかに、独自の言葉を使うことで仲間意識がたかまる、というのはあると思います。仲間うちで新しい言葉や言葉遣いを作り、それが理解できるか・使いこなせるかどうかで仲間を判断する、という。それは特に若者の間に顕著で、フランスに限らず日本でもみられる傾向だと思います。(日本の方がそのヴァリエーションに富んでいるかもしれません。)そしてこれがコミュニティを作る重要な要素という意味で、コミュノタリズムと関連させられるのはわからなくもありません。が、この「共通コード」を分かち合うのはとても愉しいことでもあります。

問題のひとつには、ある限定地域でコード化された言葉を使う人たち(この場合は特に若者たちを指していると思います)が、国民の「規範」とされる「正しい」フランス語を知っているかどうか、疑われていることがあると思います。彼らに実際どれだけのフランス語力があるのか私にはわかりませんが、「特定の地域には学校教育についていけなくなる生徒が多い」という報告をもってして、「『正しい』フランス語を知らずに彼ら独自の言葉を使っている、これは問題だ」と主張する人がいてもおかしくないかもしれません。
しかし、一方で、最近問題になっている「郊外の若者の代弁者」的ラップをみてみると、フランス語が得手でない私でもその歌詞の意味がわかりますし、必ずしも「規準」のフランス語からはずれたものばかりではありません。

あるコミュニティに属しながらも一般社会に参加することは大いに可能だと思います。
コミュノタリズムへの批判が、「コミュニティに属すること」ではなくて「コミュニティに閉じこもり、その外や一般社会と断絶すること」の批判である限り、特別の言葉を使っているというだけでそれを統制したり「征服」したり矯正したりする必要が本当にあるのか疑問です。
ただそのコミュニティ自体が国にとって望ましくないとか危険であるとか判断されたときに、コミュニティ構成要素としての言葉が敵視されるのではないか。

ところで、フィンケルクロートがインタビューの中で好んで俗語を引用しているのが気にかかります。「Nique ta mere」「thune」「meufs」など。彼らの言葉をそのまま使うことで彼らの言葉に沈着した彼らの考え方そのものを批判したかったのでしょうか。

ただ、フィンケルクロートやサルコジ内相が指している言語が、いわゆる「若者言葉」なのか…という点がちょっと明確ではないのですが…。
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コメント
今回のバンリュウ版および引き続く論争版ふたつの“混乱”を“言葉”メタレベルで見ていくのは正当なやり方だと思う。つまり、20世紀の古臭いタームで言えばパラダイムがひとつ終わって、21世紀の“思想なしのっぺり型”にウルトラ・リベラル経済グロバリの波が押し寄せ、人々は懐古主義に逃げ込もう、あるいはサルコジならなにか変えられると信じたくて民族・宗教戦争に引き寄せられる、、という図式かと、、、そんな変動の中で、言葉自体も動くわけで、そこを見てくと言うのは、ゲリラ戦的に言っても、少なくとも一時的“視点”確保になる。足場としての視点が確保できれば全体像も見えるかもしれない。そして、そういう意味ではフィンケル・グリュックスマン両氏とももう過去の人なのでしょう。

以上、感想です。残念ながら猫屋には理論構築力はないのね。あくまで直感だけ。どーしよー。
【2005/12/06 01:00】 | 猫屋 #- | [edit]
フィンケルクロートが文学への造詣が深く、美しくてニュアンスを含む言葉を愛しているらしいことはわかりました。そしてそれを実現させることができるフランス語を愛しているらしいこともわかりました。しかし、フランス語だからこそ書かれえる文学があっても、フランス語が即文学的であるかというとそれは使い方によると思うのです。言葉って道具だし。で、彼の愛する文学が盛んだった時代や、フランス語が「本質的に文学的で美しい」という観念へのノスタルジーというものがあるのではないか…ということを、猫屋さんのコメントから発想しました。
いや、実際は、猫屋さんのコメントがよくわかりませんでした…すみません。

フィンケルクロートはもういいや…と思いつつ、なんか余波が収まらないですね。今日もまたこんなの見つけてしまいました。↓
http://www.radiofrance.fr/chaines/france-culture2/emissions/matins/fiche.php?diffusion_id=36645
フランス・クルチュールの朝番組です。
なんかわからないところがいっぱいあったけれども、最後の方でまた「きちんとしたフランス語を学校で教えるべきだ」と言っていました。(そういえば相変わらず同じ例ばかり使って話していたなあ、この人。)で、やっぱりSMSテクストみたいな略語・若者文化の言葉なんかを「言語の乱れ」と言っていました。「それを創造性と言う人たちがいるけれど、それは乱れであり、直すべきだ」と言っていました。私はどちらかというと「創造性」だと思ってしまう方なんですが。たしかに学校のテストで「C pa ce ki di」とかそんな書き方されたら困りますけどね…。その辺の使い分けができるようにするのが教育なのではないかと思うし、「正しい」読み書きのフランス語だけを押し付けるのは納得いかないということなのです。
そしてひとつの「正しい」言語だけを使用させるというのは、すべてがすべての人(というか管理する人たち)に理解可能であること、透明であることを要請しているように思います。私には、そこに政府による検閲の影がちらついて見えてしまったりするのです。
【2005/12/06 15:31】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
>猫屋さんのコメントがよくわかりませんでした

いえいえ、書いた本人も良く分かってないわけですから、放置してやってください(笑
【2005/12/06 17:53】 | 猫屋 #- | [edit]
あら…(笑)
でも何となくわかりました。猫屋さんブログの記事やfenestraeさんのコメントなど読んで更に理解ができたような…多分。

言語について考えるのはわりと好きなんですが、専門の「学」として勉強したことはないし、理論などはからっきしです。
【2005/12/08 22:40】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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【2005/12/07 17:13】
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