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L'interview d'Alain Finkielkraut dans Le Figaro ~ル・フィガロ紙掲載アラン・フィンケルクロート・インタビュー~

 2005-11-22
一週間ほど前(11月15日)ですが、ル・フィガロ紙に哲学者アラン・フィンケルクロート氏のインタビューが載っていました。
和訳に挑戦してみましたので、興味のある方はご一読ください。
尚、原文はル・フィガロのサイトでは無料閲覧できなくなっていますので、転載されている他のブログ(MINORITESLe site des Amis belges de Shalom Archav)をご参照ください。

〔 〕内は私が付け加えた語、( )内は原語です。




哲学者アラン・フィンケルクロートが郊外における暴動について最初の統括を立ち上げました。

ル・フィガロ―暴動からどのような政治的・知的教訓を引き出しましたか?
アラン・フィンケルクロート―この暴力に慄きました。慄いた、しかし驚きはしませんでした。既に兆候があったのです。例えば、「マルセイエーズ」がフランス対アルジェリアの〔サッカーの〕試合で罵倒されたり、フィヨン法に反対するデモで高校生達の暴力があったり。そしてまた警告する本もありました。例えばエマニュエル・ブルネの「共和国の失われた領土(Les Territoires perdus de la Republique)」や、困難の多い地区における一定の教育機関内での宗教に準ずるシンボルについて、2004年6月の国民教育省報告などです。そこで特に知らされたのは、歴史の授業がユダヤ-キリスト教的視野を与えるものとして、また世界の部分的で歪んだ視野を与えるものとして、ある生徒達や彼らに影響を及ぼす人たちから非難されたことです。キリスト教大聖堂の建立について学ぶことや、イスラム以前の宗教の存在について聞くことの拒否から、アルジェリア戦争や中近東戦争の想起によって必然的に引き起こされる騒ぎまで、豊富な例があります。

「市民戦争だ」と言う人たちがいますが、どう思われますか?
今日、祖先からのフランス人たち対その他の人々といった戦争などないし、都市のフランスと郊外のフランスという戦争すらありません。暴力の最初の標的は隣人たちです。そして共和国の秩序の回復を要求しているのはその隣人たちです。破壊者たちに共感しているのは、93県の哀れな自動車所有者よりも、パリへ自転車通勤しているエコロジストのボボ〔ブルジョア・ボヘミアン〕族の方に多いのです。

暴動を予告する兆候は他にもありましたか?
ラップの魅惑的な一節があります。
「フランスは恩寵だ、売女のようにヤツが果てるまでヤるのを忘れるな、相手してやらなきゃいけないぜ、俺はナポレオンとド・ゴール将軍の上に小便してやる。」
(La France est une grace, n'oublie pas de la baiser jusau'a l'epuiser comme une salope, il faut la traiter, mec ! Moi, je pisse sur Napoleon et le general de Gaulle.)

しかしサブカルチャー音楽の度を越したものが、本当に暴力の起因とつながりがあるでしょうか?
公共の建物に火をつけ、ペタンクの球を高いところから警官達に向かって投げつけ、また消防員たちを攻撃する者たちが、もし90年代に再統合されたドイツにおけるロストックの暴徒たちと同じ肌の色をしていたら、いたるところで道徳的な憤慨がまず現れていたことでしょう。

そうはいっても、道徳的憤慨は、あるところでは優勢ですよ!
いいえ、優勢なのは、理解であり、原因を探るうちに起こる、許し難いという感情の解消です。ロストック仮説の中では、政治家や知識人、ジャーナリスト、アソシエーションの責任者、社会科学の研究者…みんながまるで一人のように「ファシズムを阻止!」と叫びました。しかしペタンクの球や火炎瓶を投げる者たちは、アフリカ系、北アフリカ系のフランス人たちで、この弁明が憤慨をもみ消してしまうか、憤慨を政府や国民の不親切へと向かわせてしまうのです。
放火された学校のニュースを聞いて侮辱される代わりに、放火者たちの絶望について偉そうに話す。彼らが言うこと、「あいつをやっちまえ」「警官をやっちまえ」「国家をやっちまえ」(「Nique ta mere!」「Nique la police!」「Nique l'Etat!」)と言うのを耳に入れずに、彼らの話を聞いています。つまり憎しみを呼ぶ声から助けを呼ぶ声へ、教育機関の破壊から教育の要求へ、変換しているのです。目つぶしでしかないこうした解釈に対して、これらの出来事を文字通り解読することが緊急課題となっています。

許しの文化からは程遠いと?
破壊者たちはもっと学校を、もっと保育園を、もっと体育館を、もっとバスを、と要求しているのではありません。彼らはそれらを燃やしているのです。彼らはこうして、自分達と自分達の欲望の対象の間に入る制度や全ての媒介、全ての回り道、全ての遅延に対して猛烈に攻撃しているのです。リモコンの子供たちは全てをすぐに欲しがります。このすぐ・すべてが「金(thune)」であり、洋服のブランドや「女(meufs)」たちなのです。最終的な逆説、つまり私たちの世界の敵は究極のカリカチュアでもあります。そして再建できなければならないのは、別の価値体系、時間への別の関係です。しかしこれができるのは政治家たちではありません。

政治的伝達は「テレビ領域(videosphere)」に権威を譲った?
トークショーの際限ない卑俗さやTVゲームの残忍さ、単純化や「ギニョール・アンフォ」などによる面白可笑しい意地の悪さへの日常の教育…そういった全てのものが政治家たちの手の届かないところにあります。第一、もし政治家たちがそれらに異議申し立てをすれば、編集員たちはすぐに表現の自由への全体主義的兆候だと告発するでしょう。おそらく内務大臣は…彼が唯一か、は疑問ですが…自分の行為を余りに派手に見せ過ぎる傾向があります。そして「社会の屑(racaille)」という用語は、政治的責任を負う者のボキャブラリーに属するべきではないでしょう。しかしこの形容詞に中傷され侮辱されたと感じながら学校に放火して反応する人々の前では、言葉が足りない。

しかし彼らは記録的な失業率に打撃を受けているのですよ!
ヒューマニズムが学校の為にではなく、それを放火する者たちに心を打たれる現在、仕事を得る為に授業に行くではなく教育を受ける為に行くのだということを、誰もが忘れてしまったかのようです。教育の最初の目的は教育です。教育は、それでもやはり、決して無駄ではありません。共和国が「孤立化した管轄地区(territoires perdus)」を取り戻さなければならないのと同じく、郊外の話し言葉、つっけんどんで単純化された分けのわからない言葉、悲壮にも美しさとニュアンスへの敵意をもった言葉を、フランス語は征服しなければなりません。それは職を得るのに十分な条件ではなく、必要な条件です。

それでも、誰も差別をでっち上げてなどいませんよ!
この事件において、一部の人々にレッテルを貼ることは勿論控えなければいけません。フランスでポーランド人として生まれた私自身、移民の二次世代で、迫害され、恐喝され、「馬鹿者(bouffons)」のごとく扱われている全ての黒人やアラブ人学生たちに確固たる連帯感をもっています。なぜなら彼らは〔麻薬取引の〕ディーラーよりも資格取得者であろうとするからです。彼らは援助されるべきです。雇用における差別には、たゆまず闘うべきです。機会の平等へ絶えず働きかけなければならないし、郊外都市(cites)の中へ卓越したものを探しに行き、大いなる集合を壊し、郊外を開発しなければなりません。だからと言ってこれらの処置が野蛮行為に終止符を打つと考える事はおめでたいことでしょうが。

どのようにしてそう確信できますか?
現在の暴力は共和国の不当性に対する反応ではありません。反共和国主義による途方も無い虐殺(pogrom)です。

ではこの暴力は「孤立化した管轄地区(territoires perdus)」を放棄することへの復讐ではないだろう、と?
こうした管轄地区が放棄されていたとしたら、燃やすべきバスも保育園も学校も体育館もなかったはずです。実に耐えがたいことは、こうした大手柄をやった者たちに「共和国の植民地原住民」という名を授与してやることです。その代わりに、憎悪の不当性を宣告して、恥を知らせてやるべきだったのです。社会的なケースでもそうですが、ケンカするためにスタジアムへ行き、黒人選手がボールを持つたびブーイングをあげるサポーターたちに恥を知らせてやるのと同じようにです。恥の火傷は道徳の始まりです。被害者化したり英雄化したりすることは再犯を誘います。

植民地主義の犯罪の償いが郊外の動乱へ通じているでしょうか?
勿論そんなことはありません。しかし、フランスは実際憎むべきものであると述べ、また自己嫌悪を教育の中に刻みながら憎悪を鎮めようとすれば、必然的に最悪の方向へ向かってしまいます。怒れる反乱は、義務ではなく権利をもつものとしての人間を生成する現代的傾向をその絶頂まで押し進めます。もし学校自身がそうした反乱を奨励するのであれば、もう終わりです。

統合(integration)のフランス的規範が危機に陥っているのでしょうか?
統合の共和国的規範の破綻が、非常によく語られています。馬鹿げています。共和国主義的な学校は既に長いこと機能していません。それは非常に感じの良い、社会の中に沈み込んで浸透している教育共同体のポスト共和国主義的規範です。残念ながら不滅の規範です。何故なら自身の失敗を糧にしているからです。失敗するたび、エスカレートしていくのです。そして一周するために再出発するのです。つまり、真実を無視して、フランスの学校は明日、黒人奴隷売買の多様さを反西洋的で正統的な考え方の海へと沈めてしまうでしょう。植民地化を、恐ろしくて曖昧な歴史的事象としてではなく、人間性への犯罪として教えるようになるでしょう。こうして我々は国の不統合を早めながら、統合への挑戦へ応えるようになるでしょう。
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コメント
翻訳お疲れ様でした。(いろいろな意味で)乙であります。

この記事は、読んでなかった。各人称名詞のあらわす対象が誰なのか、といった点ではフィンケルクロートに同意はできないんですが、ともかくひとつ別の視点提示になってる。ただ、現在の教育システムについての考察は短絡してる気もします。
【2005/11/22 23:26】 | 猫屋 #- | [edit]
どーもです。
なんか誤訳がいっぱいありそうで怖いんですが…。

そうそう、「ひとつ別の視点の提示」という意味でひっぱってきました。
感想を先に言ってしまって読む人に先入観を与えるといやなので、あれやこれやは後出しのつもり…です。(意地が悪いかな。)

ル・モンドのグリュックスマンの記事は読まれましたか?私はざっと目を通しただけですが、彼もフィンケルクローと似たようなことを言っています。
【2005/11/22 23:52】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
グリュックスマンもまだ読んでない。新聞も買い損ねたので(寒かったのだ)ル・モンドは大一面ネットで見回しただけです。これから読んでみる。

グルックスマン・フィンケルクロート両氏ちょっとね、このごろ、あんまり好きクナイのよね。グリュ氏はチェチェン関係でちとズレが見れらた、フィンクロ氏はイスラエル関係でちとズレてた記憶がある、、本は読んでないんで明言はできないです。(小声で言ってみただけ)
【2005/11/23 01:18】 | 猫屋 #- | [edit]
実は私、フィンケルクローもグリュックスマンも読んだことがありません。

フィンケルクローは、例のアルディソン番組で(たしか今回の米軍イラク介入直後だったと思いますが)ジュリエット・ビノシェを泣かせていた覚えが。いや、正確には泣かせていたんじゃなくて、ビノシェがフィンケルクローの言ったこと(覚えてないけど…)に賛成できなくて、虐げられる立場の人々のことを思って泣いてしまったんですが。そのときの、女性に泣かれてしまってどうしていいかわからず、ただ苦笑しながら頷くしかないフィンケルクロー、不器用な男だなって感じでした。真面目に難解な哲学だけやってる人という一般的なイメージに背かない感じ。
…って、内容とか思想とは全然関係ないですね。
【2005/11/23 22:53】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
なかなか凄いことになってきました。言論界でもフランスがいもどのくらい騒然としているかを示す、資料的にも貴重な翻訳となりましたね。
【2005/11/24 02:19】 | fenestrae #S1xi4FKw | [edit]
こまったな。そろそろブログ一時引退を考えてたんだけども。
【2005/11/24 04:55】 | 猫屋 #- | [edit]
この記事を読んで漠然と思ったのですが、フランスの哲学者は意外に「移民」について考えてこなかったのではないでしょうか。
目の前で起きてる事態について、なにか一本筋の通った意見のようなものがエマニュエル・トッドほどには伝わってこないのですが。
【2005/11/24 12:58】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
>fenestraeさん
そう言っていただけると、訳してよかったな~と思います。ありがとうございます。
でも…貴重ですか…なんか今更責任を感じてきてしまった。

>猫屋さん
えっ、引退ですか?そんな~~。それは残念すぎるのです。
でも「一時」?戦争中だからでしょうか?

>pianomanさん
うーん、そんなことはないと思いますけれども…。どうなんでしょう。「ディアスポラ」「ノマド」がその哲学のキータームである哲学者ならいますよね。
また、どのような哲学的立場をとるかという問題もありますし、フィンケルクローの場合は彼の立ち位置・視点が今回の出来事にマッチしない、ズレたものである感じはします。個人的な意見ですが。
【2005/11/24 22:46】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
いや、時間が足りないんで少しスローになるだろう、ということかな、結局。今日のルモンドにしてもネタだらけだし、でもクリップしてもフランス語だらけだしね、難しいです。

フィンケルクロートもグリュックスマンもhas beenの人々だなあとつくづく思いました。
【2005/11/25 00:40】 | 猫屋 #- | [edit]
たしかに現代思想の人々は「ディアスポラ」であるとか「ノマド」といった言葉で移民の問題を考えてきたのかもしれませんが、おそらく彼らはそれが自分たちに降りかかる具体的「暴力」として表象することがあまりなかったのではないでしょうか。
こういったことはどちらかといえば保守的な思想家が得意なことなのかもしれません。
最近思うのですが、良質な保守思想家を欠いた思想風土というのは貧しく危険なものとなってしまうのではないでしょうか。フランスの保守政治が良質な思想的バックボーンを欠いたままチンピラ風の内相の下劣な発言によって代表されてしまうのはフランスの左翼にとっても不幸なことなのかもしれません。
【2005/11/25 02:49】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
>猫屋さん
あ、続けられるということですね。
よかったです。

私はよく知らないくせに言ってしまいますが、「ヌーヴォー・フィロゾフ」ですからねえ…。

>pianomanさん
「暴力」を主題ににして「移民」というタームに行き着くことはあるかもしれませんが、その逆はなあ…。そういう哲学者はすごいヤダなあ、と思ってしまうのですが。(プラトンなんかはそうなんですかね?)
あ、私も真性サヨですか。
っていうか、自分自身、ディアスポラになりつつあるし、ノマドには憧れるところがあるので。

それに、どっちかというと社会学の領域での方が扱われるテーマのような気がします。
「哲学者の役割は、他の人たちがやること『について熟考する』のではなく、概念を創造すること、またそれらの概念を自分の周囲で起こることに共鳴させることだと、ドゥルーズは絶えず繰り返した。」というディディエ・エリボンの一文をなんとなく思い出しました。(や、研究者を前にこんなこと言ったりして僭越ではございますが…。)
多分、自身の「哲学」を構築していて、その視点から社会の事象についてコメントできる哲学者は結構大物なのでは、と思います。
私は、「ヌーボー・フィロゾフ」はそういう類の哲学者ではないんじゃないかな~思います。印象で言ってますが。
で、それだけの哲学者っていうのが(右も左も)現在乏しいらしいのは否めないようですね。
【2005/11/26 00:28】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
横レスっぽく、
途中で躓いてるんですが、レイモン・アロンの自伝読んでます。ああいう時代はもうこないのでしょう。
今の哲学の貧困にはいくつか原因があると思うんですが、そのひとつにフーコーの責任っつーのがあります。これは猫屋の論(笑)。つまり“歴史哲学”をあそこまで引っ張りあげておいてご本人は“勝手”に死んじゃったわけで、これはずるいよ、、、という冗談ですが、、、おあとがよろしいようで。
【2005/11/26 00:53】 | 猫屋 #- | [edit]
思うに「移民」であれ、「女性」であれ、「異教徒」であれ、「他者」というものは根源的に「暴力的(存在論的な意味で)」なものなのではないでしょうか? われわれはこの根源的暴力性に恐怖するあまり、「オリエント」であるとか「女性」といった表象を産み出しこれを押さえ込もうとしてきたのでしょう。
しかし重要なのはわれわれがこの表象装置のからくりを暴いたからといってこれから逃れられるものではない、ということなんです。むしろ「他者」の暴力性を忘却させてしまうおそれさえある。それゆえ「他者」を分析しあたかも諸々のイデオロギーから「解放される」かのような思想に懐疑的になることが大事なのではないかと思うわけです。
だから時と場合によって「保守的」とされる思想家のほうがむしろラディカル(つまりより徹底的に懐疑的である)な場合があったりするようにおもうのですが。
こういう考え方はわたしが田中美知太郎門下の人々にギリシア哲学のてほどきを受けた影響かもしれませんね。
【2005/11/26 06:07】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
>猫屋さん
フーコーは広すぎて…ほんの一部しか知らないのですが、recitという感じの部分が多い印象があります。フーコーさんの膨大な資料を参照する能力は恐ろしいですが、彼が哲学者として本領発揮するのはやはり後期で、それを完成させる前に死んでしまったのかな…というのはかなり想像で言ってますが。

>pianomanさん
それらの「概念」の定義の中に「暴力」的なものを見出す、またはその「語」を定義するときに「暴力」を繰り入れるのかもしれませんが、「移民」や「女性」、つまり「他者」が「暴力」という特性を備えるものと見なされるのだとしたら、「移民」そのもの、「女性」そのもの、「他者」そのものが「根源的に」「暴力的」なのではなく、「移民」「女性」と名づける人と名づけられる人の間、「関係」の中に「暴力」が存在するのだと私は思います。
だから自分の外にあるそれらのものがそれだけ・それ自体で暴力的なのではなく、自分自身も「暴力」の一端を担っていると思います。
多分、そこから問いのたて方が変わってくると思います。
そして、「この表象装置のからくり」というのが、私の知識不足も手伝って具体的にどういことなのかわからないのですが(満足な議論相手になれなくてすみません…)、それを「暴いたからといってこれから逃れられるものではない」とは思いません。私は基本的に楽観主義なようです。っていうか悪い意味でナイーブなのかもなあ。
【2005/11/27 00:10】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
いやいや、装置の誤謬は訂正可能でしょう、気がつけば。母国でやってるジャンダーフリー論争なんて、まあフィールドは違うけどその派生だと思います。オブジェクション提示は生きてるものの(そして時間がある者の)義務だと思うですよ。
【2005/11/27 01:55】 | 猫屋 #- | [edit]
その後、再考いたしまして、「他者」というタームに既に「関係」が含まれているということに思い至りました。
しかしながら「理解不能な者」としての「他者」とのコンタクトが「驚き」を生じるものだとしても、それを「暴力」と呼ぶかどうかは解釈の違いだろうなあと思います。同居人曰く、ドゥルーズだったらそれは「享楽(jouissance)」だろうということです。

多分、猫屋さんの仰る通り、もし「表層装置のからくりから逃れられない」としても、そのからくりを知ったうえで変えられるもの、変えなければいけないものがあるだろうと思います。
【2005/11/27 23:04】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
もう一回shibaさんの訳文読んだわけですが、結局のところフィンケルクロートは“名付ける”部分ですでに間違ってると思う。それは哲学の基本行為だと思うんですが。ドゥルーズの関係性ですね、そのあと来るのは。たぶん。
【2005/11/28 00:17】 | 猫屋 #- | [edit]
わたしの言葉が足りなかったようですみません。まさに「暴力」は「他者」との関係に存在するものです。もちろんそのなかには「驚き」(タウマゼイン)も含まれるのですが、「驚き」も、ある意味では自分がもつ既存の観念に加えられる「暴力」といえるのではないでしょうか?そしてこれは余談ですが、「芸術的美」も聖なる暴力であることをわたしは“Larks'Tongues in Aspic”というアルベムによってしらしめられたわけです。だからここでわたしが想定する暴力は「善悪の彼岸」にあるものであって、それを事後的にわれわれが善いとか悪いとか言っているだけにすぎないようにおもわれます。ハイデッガーのシェリング解釈にひきよせていえば「悪」というタームがこれにあたるようにおもわれます。
「表象装置」の問題ですが、たしかにこれを変えることはできるのだとおもいます。しかしそれはあくまでも変えるだけであって根絶されるものではないのではないでしょうか(つまりニーチェのいう「それなしには生きていけない誤謬」というやつです)。そしてそれを変える基準もけっきょくわれわれのそのときその場の「都合」にすぎないのであって、それが後世どう評価されるのかというとなんともこころもとない気がするのですが。
【2005/11/28 05:02】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
「暴力」を哲学的概念を備えた語として用いられているのだろうなという予感はありましたが、私にとって「暴力」とは既にネガティブな意味を含む語なので、敢えて先のように述べました。
限定された領域内での議論、特に哲学的な議論においては、あるキータームに日常語よりも踏み込んだ定義・意味を負わせるのは理解していますが、私が哲学の徒と自称したら他の本当の哲学の徒を侮辱することになるような、そういうレベルでありますし、インターネットで議論(特に論理的・哲学的議論)をするにはかなりの無理があると思いますので、その辺りはご了承・ご容赦願いたいと思います。

とはいえ、ここまできたので一言付け加えておきますと、「暴力」の結果として「害」という語を連想しますし、そうなると「暴力を受けた」とは被害者的立場の発言であると思うし、なぜ「衝撃」とか「驚き」という中立的な語ではダメなのだろう、と感じるわけです。「衝撃」があって、それからそれを「暴力」ととるか「享楽」ととるか、それは「価値判断」の問題に関わっていると思うのです。つまり、私は「暴力」という語に既に価値的意味を見出してしまうので、その点でpianomanさんの意見と一致しないのですね。

それから、後世が今の私たちの価値判断をどう評価するか、ということですが、後世の価値観は今のそれと異なっているかもしれませんし、私たちが今想定する「後世」は、実際に訪れる「後世」とは違っているでしょう。だからもし私たちが「後世」を想定しながら何かを決定するとしても、それはあくまでも「現在」の決定でしかない。現在を生きている私たちが私たちの現在の決定をしなければいけないのではないでしょうか。
【2005/11/29 15:17】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
いまのお話で考えたことは、思想の持つ「毒」ということでした。これもまた「暴力」と同様にネガティヴなイメージをあたえるものです。しかしたとえば、お菓子に含まれる砂糖は健康な人にとって美味な味付けには欠かせないものですが、糖尿病の人には「毒」以外のなにものでもない、ということになります。
あるいはニルヴァーナのようなバンドから「暴力性」というものを取り除いてしまったら、もうそれはもうニルヴァーナの音楽ではない。ではニルヴァーナのような暴力的な音楽は禁止されるべきなのでしょうか?
同様にニーチェの思想にはニーチェ固有の「毒」があり、プラトンの思想にはプラトン独特の毒があるわけです。むかしあるプラトン研究者に「プラトンの思想は危険ですね」といったら、「あなたはプラトンをよくわかっている」と言われ、虚を衝かれたことがあります。だからある思想家に惚れるということはその思想家の「ヤバイ」部分を中毒にならずに、美味として摂取できる必要があるのではないでしょうか。ふぐを食べたときに「軽くしびれるのがいい」という人がいるように、ひとつの思想を味あわなければその思想を理解したことにはならないのかもしれません。
もうひとつ「後世の価値観云々」の問題ですが、わたしは哲学者に必要な資質のひとつとして「反時代的」であるということが含まれるのではないかとおもっています。たとえばいまどきプラトンやらアリストテレスやらの原典をギリシア語で精読するなんてことはアナクロニズム(もしくは外国であれば哲学者として当然の基礎作業?)と呼ばれるのかもしれませんが、結局ニーチェにせよハイデッガーにせよギリシア哲学の原典の精読から出発してるわけで、彼らがフランスの現代思想におよぼした影響を考えると「アクテュアルな思想」といわれるものも結局「古典の読み直しの読み直し」にすぎないのではないか? と思われてくるわけです。だからわれわれが現代に生きるからといってその価値観がほんとうになにか新しいものなのか? ひょっとするとそれはすでにとっくに繰り返されたことなのではないか? と常にそれを相対化して懐疑的になる必要があるのではないかと感じるわけです。
【2005/11/30 07:28】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
ファルマコンですね。>毒

そもそも「暴力」という語について一致していないのですが、敢えて言うなら「暴力」そのものを否定はしません。ただし、「他者」を「暴力」中心に語ったり、「暴力」を積極的に語る哲学はいやだなあ、と。だって暗いじゃん。

「価値観」が異なる、というのは、全く目新しい、未知のものに変わる、ということではありません。往々にしてひとは、少しのズレにはなかなか気がつかないものだと思います。原典を研究することを「アナクロニズム」とは全く思いません。そして哲学の歴史が「古典の読み直しの読み直し」なのは同意です。しかし「古典の読み直しの読み直し」は「繰り返し」ではない。それは常に創出です。
【2005/11/30 22:19】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
まあ、結局は好みの問題なのかもしれません(といってはいけないのかもしれませんが)。ドイツ哲学は概して暗いのです。アドルノなんてどこにも救いようがない。ニーチェのような人はそんなドイツ人を笑い飛ばそうとするのだけど、やはりどこか無理をしているところがある。
「古典の読み直し」ですが、それが劣化コピーでなく「創出」であればさいわいなのですが……。わたしの貧しい経験からいってもゼミでディールス・クランツを「オルペウス」のA断片から読み始めて、「エンペドクレス」まで読み進めたとき、ニーチェやハイデッガーがプラトンの哲学を頽落と呼んだことを実感したしだいです。
【2005/12/01 03:03】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]












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【2005/11/23 09:10】
  • [本日の気になる記事]【SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS】
    てか、このコーナー、ほとんどフランス「暴動」情報の紹介になってきたな。 というわけで猫屋殿より。http://neshiki.typepad.jp/nekoyanagi/2005/11/post_f7c3.html それから fenestrae 殿より。http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20051124 サルコジ降臨。そんでブログ
【2005/11/24 04:17】
  • ラッパー・フィンケルクロート【fenestrae】
    アラン・フィンケルクロート Alain Finkielkraut のフィガロのインタビューを L’écume des jours の shiba さんが訳してくださっていて、その悲憤慷慨調をよく写した訳になっている。中身はかなり凄い。が、実はもっと凄いのがある。RCJ (La Radio de la Communaut&
【2005/11/24 10:10】
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