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Hiroshima : 60ans apres

 2005-08-06
capt.xjk10708060110.japan_hiroshima__xjk107.jpg広島に原爆投下された8月6日から60年。
今年は平和記念式に32カ国が参列したそうですが、日本だけではなく世界中で原爆ついて考えて欲しいと改めて思いました。



数ヶ月前になりますが、大学でアメリカ人の留学生に声をかけられました。彼はグローバリズムについて論文を書いているそうなのですが、指導教官からヒロシマの問題をとりあげてみたらどうかと言われ、色々調べているとのことでした。そこで、日本では戦争と原爆投下についてどのような教育がされているか知りたいとのことでした。
で、思い返しますと、反戦教育というのをそれなりに力をいれてやっていたような記憶があります。それは世代によって違うのかもしれません。それに、私が通っていた高校は、1969年の学生運動に触発されて校内バリケードを築いたという伝説のある、左翼的な学校。(とても自由な校風で楽しかったけど。)反戦思想の傾向が強かったのではないかと思います。
しかし、反戦教育の内容は、原爆による被害の甚大さを伝え、ただ「戦争を繰り返すな」ということでした。アメリカが原爆を投下したという事実についてどう思うかということは触れなかった気がします。それは時代的な問題もあったかもしれません。大人たちは安全保障問題について論争していたようですが、結局、日本政府は軍事的にアメリカの庇護下にとどまることを決めた時代でもありました。
他の人はどうだったのかな、と、数名の日本人にも話をふってみました。同世代でも校風の違いのせいなのか、戦争についてはあまり深くやらなかったという人もあり。でもまあ一般的に「戦争を繰り返すな」ということが強調されてきたようです。
ところで、アメリカでは?ということで、彼に逆に質問してみました。アメリカでは原爆投下を正当化する意見が一般的だとか。戦争に終止符を打つために必要だった、とか、人種差別的思想を助長するような正当化の意見もある、とか。実際、戦争直後のニュース映画ではそういうプロパガンダもあったらしいです。そのときはまああまり驚きませんでした。
しかし60年経った今でも原爆投下を支持する人がアメリカにはたくさんいるということをはっきり数字で表されると、ちょっとショック。(参考:朝日新聞の記事

先日、TF1で「Hiroshima」という番組をやっていました。原爆投下までの経緯とその後を映像資料やインタビューで綴ったもの。BBC制作でした。その中で、ENOLA-GAYに乗っていた元兵士が「当時、日本は憎い敵国で、たくさん殺すのがよいと思われていた」というようなことを言っていました。そういえば、昔アメリカ東海岸のパックツアー旅行に参加したとき、グループにいたおじいさんが「以前は、戦争をした敵国に行くなんて絶対嫌だったけど、やっぱり見ておこうと思って来た」と言っていたのと思い出しました。
どこか特定の国を憎まなければいけない時代ではない、平和な時代に私は生まれたんだなあ、それは幸せなことだなあと思いました。

その番組の最後に、爆心地から6キロのところにいたという日本人男性が「あれは戦争を口実にした、原子爆弾の効果を知るための実験だった。」と言っていました。私はその通りだと思います。その後、アメリカの元軍人が「最後通牒にも関わらず譲らなかった日本があの原爆を投下させた」と言っていました。私はそういう考えに対して賛成することができません。戦争に終止符を打つための手段がなぜ原子爆弾でなくてはならなかったのか…。
Le Mondeの記事によると、原爆の影響を知る為に、アメリカは被爆者を治療せずに、テストしたり死体解剖したりしていたらしいです。

フランスでは第二次世界大戦におけるユダヤ人大量虐殺について、誰でも知っているし、それについての論争がしばしば起きる。でもヒロシマについては?
マルグリット・デュラスが「ヒロシマの愛人」を書き、アラン・ルネが映画を撮ったけれど、実際、ヒロシマの原爆投下のことをどれだけの人が知っているのだろう。原爆投下50周年の年に核実験を行ったフランスに、ヒロシマについての認識を持つ人がどれだけいるのか疑問に思う。

オーストラリアで、アメリカで、マレーシアで、核兵器に反対するデモが行われたそうです。(参考:Yahoo Franceの記事

平和な時代だからこそ、ヒロシマの原爆について(その意義も含めて)もっと議論されてもよいのではないかと思うし、日本だけではなくアメリカでも問題提起されてほしいと思うし、そのために他の国がヒロシマに関心をもってくれるといいなと思います。
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コメント
最近、山下肇の「ドイツ・ユダヤ精神史」という本を読み直してるのですが、この本はホロコーストによって覆われてしまったドイツ人とユダヤが人共同で生み出した思想・文学の流れを歴史の中に洗い出そうとするものです。そこで目についたのは徳永恂の解説で、彼は山下肇がドイツ教養主義のもとに華開いたユダヤ精神を擁護するあまり、そもそも大量殺戮の思想なんてものは成り立ちえないのだ、と発言したことに反論していることです。それはフランクフルト学派の研究者である徳永恂の立場からすれば当然のことでしょう。
翻ってヒロシマですが、今年もNHKをはじめとしてテレビではヒロシマの特集が組まれています。そのいくつかをぼんやりとみながら考えたことは、ヒロシマで被爆した人たちの「悲惨」とは何なのかということでした。彼らが肉体に受けた傷はもちろん悲惨なものですが、わたしはそれ以上に彼らが運命にうけた傷の悲惨に思いをいたさずにはいられませんでした。原爆で死んでしまった人はもちろん運命の命脈すら絶たれてしまったわけですが、生き残った人も恢復しがたい傷を自分の運命に受けてしまった。しかもその人たちは生きるからにはその傷だらけの己の運命をなんとか肯定して生きていかなければならない。わたしはここに彼らの悲惨さ、延いては人間の悲惨さをみたわけです。
ヒロシマに原爆が投下されてから60年目の同じ日に大阪では自殺サイトで知り合った自殺志願の女性を快楽目的で殺した男が逮捕されました。彼は他にも二人の男性を同様の手口で殺しているようで、ひょっとすると他にも被害者がいるかもしれません。彼は被害者の口を押さえてその苦しむ様子をみると異常に昂奮した、と供述しているようです。
自殺願望の女性と快楽殺人の趣味をもつ男が出会い、彼が彼女を殺す。しかしここにはヒロシマにみる悲惨が感じられません。それとも悲惨は忘却されているだけなのでしょうか。
【2005/08/08 02:17】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
そう言われると「悲惨」というものは何なのか考えてしまいます。
それとは話がずれますが、よく「戦争の悲惨さを後世に伝える」と言いますよね。私はこの言い方がどうも好きになれません。しっくりこないというか。「悲惨」という言葉は価値判定の意味を含み、主観的な言葉だと思います。だから、まず、一般的な事実を伝えようというとき、そういう言葉を使うのは正しくない気がするのです。
そして、戦争で人々がどんなに悲しい思いをしたか、どんな惨状を見たかということを伝えようというとき、それは体験した人の「悲惨さ」ではあるけれども、聞き手もそれを「悲惨」と感じるのが当たり前だというような、全員一致で「それが戦争の悲惨さだ」と感じるのが当たり前だと前提しているような言い方だと思います。もちろん、聞き手もそれを「ひどい」とか「悲しいこと」とか感じとるだけの想像力と感受性をもって欲しいと思います。でも、最初から「ね、悲惨でしょ」と言うよりも、聞き手の中で起こる自分の感情を他人から指示されずに感じとって欲しいと思います。話し手に相槌を打つかのように「それは悲惨だ」と言うとき、何かに誘導されてしまっていないでしょうか。「悲惨でしょ」と言うとき、だからあなたも悲しみなさい、怒りなさい、という命令が暗に発せられている気がします。
誰に指示されずとも「戦争は悲惨だ」と感じることは大事だと思うし、そう感じなければならないと思います。ヒロシマのようなことはとても重要なことなので、このことは特に注意するべきだと思うのです。
以上のことはpianomanさんのコメントとはほとんど関係ありませんが、ふと思い出したので書いてみました。

私も、フランス国営放送で、被爆者の方のルポルタージュ(「Envoye Special」)をみましたが、原爆が身体だけでなく人生に大きな影を落としたことを改めて聞かされ、昔受けた反戦教育とはまた違った視点で原爆を考えることをしなければいけないのではないかと思いました。

pianomanさんが考える「悲惨さ」と私の考える「悲惨さ」は一緒ではないことを前提に。私は「悲惨」とはやはり負の価値の言葉だと思うので、今の日本に悲惨さがあるとしたら、pianomanさんが言う「悲惨さ」を知らない人たち(まさに自殺サイトで集団自殺しようとしたり殺したりする人たち)こそが悲惨なのではないかと思いました。
【2005/08/08 21:31】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
ブランショがアウシュビッツで起きたことについて、忘れないでください、でもそこで起きたことは永遠に知りえないでしょう、という意味のことを言っていて、これはそのままヒロシマにもいえることなのではないかと思います。
文学や哲学の役割とはステロタイプ化された言葉や思考に抗って何かを表現することにあると思われます。「悲惨」という言葉についても同様で、おっしゃるように、これもステロタイプ化された途端に、ただの政治的装置となり、あげくのはて忘却のかなたに追いやられてしまう。
被爆者がなかなか自分の体験を語りたがらないのも、ひとつにはそれがとても言葉で表現できないということもあるのでしょうが、もう一方で安易な表現が逆に事態を覆い隠してしまい、ステロタイプ化してしまうという惧れからのことなのではないでしょうか。
ヒロシマやアウシュビッツで生き残った人々の「沈黙」についてわれわれはもっと考えるべきでしょう。
【2005/08/09 01:20】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
そうそう、ステレオタイプになり空虚になる。言葉もそれに表される事実も。

>文学や哲学の役割とはステロタイプ化された言葉や思考に抗って何かを表現することにあると思われます。
全く同感です。文学や哲学は「なかなか言い表わせないこと」や「一言で片付けられないこと」を展開したり表現したりする、重要なものだと思います。これが何故実利的でないという理由で軽視されるのかわかりません。(いや、なんとなくわかるけど。納得いかない。)

シモーヌ・ヴェイユがアウシュビッツの刺青を消さずにいること、それを見るだけで、何か語りきれないものがあるのだなと感じました。
【2005/08/09 22:26】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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