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カンギレム的健康、または病理的であること

 2005-07-08
20050709001259.jpg今、ジョルジュ・カンギレム(Geroge Canguilhem)という人が書いた「正常と病理」という本を読んでいます。
「正常」「異常」「健康」「病気」という4つがキータームです。
あ、別に今までの記事で書いてきたように、年を感じて体調不良が気になるから読んでいるわけではありませんよ、念のため。

その中で、「健康」について。「健康とは、環境の不正確さを許容する幅である。」(「正常と病理」法政大学出版局、1998年第2刷、176頁)「環境の不正確さ」とは、ちょっとややこしく色々あるのですが、まあ端的に言うと、例えばイレギュラーなできごと。それに出会っても用事をこなせるということは健康です。「もしいつものパン屋が臨時休業していればパンを求めるために遠くまで買い物に行く」とか「もし(電車の)最終時間が過ぎていれば、遠くても自分の家まで歩いて帰ること」ができるというのは健康のなせる業です。慣れている環境が多少変動しても、それを許容できる幅があるということは健康なのです。
逆に「病理的状態」とは、限られた環境でしか生きられなくなること。身体器官の一部を除去するという生理学的実験において、もしその被験体が以前とほとんど変わらない生理的定数(脈拍数とか赤血球の数とかなんとかかんとか)を示し、「正常」でありつづけると判断できたとしても、それはあくまでも実験室の整えられた環境の中でのことであり、被験体を保護されていない環境へ戻したとき異常を示す可能性は大きい。つまり、被験体は正常な状態である可能性が狭められているわけです。これは健康度が少なく、「病理的状態」と言えます。

この本と関連して「生命の認識」という小論文集の中の「正常なものと病理的なもの」というテキストも読みました。この中で痛快な一節。
「しかし、ほとんどつねに心理学者とか精神医学者は、異常な行為とか表象について語るとき、正常なものということで現実とか生命へのある一定の適応形態を念頭に置いているのであるが、実はそうした適応形態は、次のような人にとってであれば別であるが、まったくと言っていいほど絶対的なものではない。そのような人とは、技術的、経済的、あるいは文化的な諸価値が相対的なものであるなどとは決して考えたこともなく、無条件にそれらの諸価値の価値に固執し、ついには、自分の周りの者による自分自身の条件づけの様態やそうした周りの者の歴史を忘れることによって、また余りにも本気で諸規範の規範は自分に体現されているなどと考えることによって、ほんのわずかでも批判的などんな思考にたいしても、自らが狂気のうちにあばき出すものときわめて近い幻想の犠牲者として、姿を現わすことになる。」(「生命の認識」法政大学出版、初版、197-198頁)
長文でわかりにくいのですが、フランス語を合わせて読むともうちょっと意味が理解しやすい(より理解ができる)かもしれません。
「Mais la plupart du temps, en parlant de conduites ou de représentations anormales, le psychologue ou le psychiatre ont en vue, sous le nom de normal, une certaine forme d’adaptation au réel ou à la vie qui n’a pourtant rien d’un absolu, sauf pour qui n’a jamais soupçonné la relativité des valeurs techniques, économiques ou culturelles, qui adhère sans réserve à la valeur de ces valeurs et qui, finalement, oubliant les modalités de son propre conditionnement par son entourage et l’histoire de cet entourage, et pensant de trop bonne foi que la norme des normes s’incarne en lui, se révèle, pour toute pensée quelque peu critique, victime d’une illusion fort proche de celle qu’il dénonce dans la folie.」 ("La connaissance de la vie", Vrin, Bibliotheque des textes philosophiques, 1992, p. 168)
つまり、自分の価値判断に微塵の疑いももたず、彼自身の規範が絶対的なものと信じてやまない人は、他の規範を許容できないという意味で「病的」であり、狂気からそう遠くはない。

柔軟性と可塑性、展延性。生命の不可逆性。
カンギレム的意味で「健康」な人間でありたいなあと思います。
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コメント
フランスにゐると否応なく「健康」になりさうですね…。

しかし日本語版の翻訳はどなたが…。まさか金○修氏では…。

勉強になりました。
【2005/07/10 18:18】 | みむろ #QutQ6jck | [edit]
フランスの日常生活でこの健康さって大事だなあと実感してます(笑)。

翻訳は「正常と病理」は滝沢武久という方、「生命の認識」は杉山吉弘という方です。巻末の訳者紹介によると、前者は心理学専門、後者はマルクス専門っぽい(バリバール、リオタールなど翻訳しているらしい)です。
【2005/07/10 22:30】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]
カンギレムはフーコーのお師匠さんでいたっけね。で、そのカンギレムの師匠筋にあたるのがカッシーラーらしいです。で、カンギレムの弟子筋にあたるのがクーンということをまえにどっかで読んだ記憶があります。そのクーンの弟子がいま日本で悪評をかっているようですが。
【2005/07/11 06:18】 | pianoman in Matsudo #- | [edit]
そうです、フーコーさんの博士論文(「狂気の歴史」)指導教官はカンギレム先生でした。

悪評をかってる…ってどなた?
【2005/07/11 20:21】 | shiba #h/1ZVhMA | [edit]












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