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A propos des caricatures de Mahomet ~ムハマンドの風刺画について私見~

 2006-02-14
正直に言いますと、風刺画の騒ぎについて熱く語ろうと思うほどの興味はありませんでした。もちろん、興味がないわけではなく、最近のブログの多さも手伝って、それについての解釈・意見がたくさんあることに驚き、納得したり違和感を感じたり、事実そのものよりもそちらの方が興味深かったです。
いや、とにかくこのブログって地味で稚拙なよちよち歩きブログなわけで、マイナーブログながら、今回の件で急にアクセスが多くなり(特に日本から)、みなさんの関心が深いことにびっくりしています。

というわけで、私見雑感です。
先に述べたように、私は特別すごい興味があったわけではないので、日本でどのように報じられているのかまでは殆ど追っていません。しかし、日本在住者の意見を拾うと、どうやらヨーロッパの「表現の自由」を擁護しようとする態度が高慢である、と非難する傾向があるように感じられました。
私はある程度まではその意見に同感です。

自由には限度があることは否めないし、それを知ってこそ自由であることができるのだと思います(ということはすでに書きました)。表現の自由を叫ぶ人だって、オリヴィエ・ロワ氏が言うように、現在のフランスで身体障害者や同性愛者を嘲笑するような諷刺画を一般に公開しようなどと思わないでしょう。また、私はデュードネはやり過ぎだと思うのですが、彼の言動を擁護して表現の自由を叫ぶ人は、今回の件に関しても同じく表現の自由を叫ぶべきです。
しかし同時に、ファシズムを経験したヨーロッパ諸国にとって、表現の自由を擁護することは民主主義と連結して重要なことだろうと思います。

今回の件で、フランスの新聞の態度について私が同意できない点は、12のすべての諷刺画を掲載したことと、「表現の自由」の権利をデンマークのそれと同一視したこと、そしてそれをイスラム系の国々に対立して掲げたことです。

デンマークの12の諷刺画のうち、いくつかのもの(特に爆弾をターバンにしたイラスト)はイスラム=テロリストというアマルガムに対して敏感になっている情勢において適切でなかったと思いますし、諷刺画ですらないものもあり(もともと描かれた目的が風刺ではなかったのですし)、そのちぐはぐな12のすべてがひとまとめになったとき、象徴的な役割が与えられています。そしてその12すべてを「表現の自由」のもとに掲載した態度は挑戦的であるととられて当然だと思います。
ところで、フランスの幾つかの新聞がムハマンドの諷刺画を掲載したことについて、fenestraeさんのエントリーに詳しく経過と分析が載っています。私はリベラシオンには全く目を通していなかったのですが、fenestraeさんが訳してくださっている部分を読むと、彼らの判断はフランスにおける正当な権利の擁護であり、それほど高慢な主張であったとは思われません。また、デンマークの諷刺画を掲載しなかったル・モンド独自の諷刺画は、非難を浴びるほどのものではなかったと思います。というのは、預言者を描いてはいけないというタブーは実際には絶対的なものではなく、その諷刺画はイスラム「非難」ではなく現状の「批判」であり、スマートなものであったと思います。(もちろん、これは個人的な意見なので、ムスリムの間ではやはりこの諷刺画に憤りを感じる人もいたようですが。)シャルリー・エブドの一面に掲載された諷刺画は、これも個人的には悪いものではなかったと思います。しかし、何故あれだけ問題になっている渦中にシャルシー・エブドはわざわざ12の諷刺画を掲載したのかと疑問ですし、挑発的だったと思います。

二点目として、フランスの新聞がデンマークの表現の自由の権利に連帯を示したとき、同じ寛容度の自由を分かち合うひとつのヨーロッパとしての権利と考えたのなら、それはちょっと間違っていたと思います。
表現の自由について、限度が問題になってくると、どこにラインを引くかはとても難しいし、これは紆余曲折を経て、一定の時代の一定の社会で決まっていくこと、社会の反映だと思います。(この点に関して、猫屋さんとほぼ同見解といっていいと思います。)だから、今回の件に関しては、表現の自由対ムスリムという構図から国境をとりはずすべきではない思います。
また、デンマークとフランスでは、社会のあり方が違うし、表現の自由の限度が違うはずです。デンマークでナチス的発言が公の場で許されたり鉤十字を新聞に掲載したりすることが容認されていることが、それを示しているとはいえないでしょうか。
それから、当時、デンマーク国内ではムスリム系移民に対して緊張が生じつつあったといわれています。保守系の新聞があの諷刺画を掲載したのはそういう社会的背景があったからだと考えるなら、それはまずデンマーク国内の社会問題だったはずです。

ところで、フランス・メディア全般に、暴力的な抗議運動を煽動し民衆を道具にして操作する政治的意図・政治権力を批判する論調があります。そしてアメリカもそのような見方を示しました。これに関して、国際的に広がった抗議行動が「表現の自由対冒涜への怒り」という構図ではもはやないことは、既に述べました。宗教的というより政治的な色の方が濃い、というのは、フランスのイスラム研究者の間でも2月の初めの方で言われています(例えば以前に引用したクレマン氏のインタビュー参照)。
そして、シラク大統領が挑発を控えるように促したその日にムハマンドの絵を出版したシャルリー・エブドの編集長は、インタビューで同じ論調にてイスラム系諸国の高官を非難しました。しかしそこでは、外部を非難することで自分への非難をかわす戦略があると感じました。(それは暴動が起きている国の政権がやっているのと同じことなわけですが。)シャルリー・エブドの編集長にそうした意図があったかどうかわかりませんが、そうやって自国の中にあがっている「表現の自由」についての問題を避けて、自分達の正当性を通してしまうことも可能です。
しかし、他国に対してヨーロッパ全体の民主主義に欠くべからざるものとしての「表現の自由」を強調するのではなく、フランスにおける「表現の自由」と、フランス国内のムスリムと表現の自由の関係について問い直すべきなのではないかと思います。ここで、ヨーロッパ対イスラムという国際政治的問題と、表現の自由対ムスリムというフランス社会問題という次元に分けて考えるべきなのではないかと思います。そして、この件を他国との対立問題と考えて、政治的非難でかわして一件落着にしてしまうべきではなく、自国の問題として議論が展開されるべきだと思います。

では、フランス社会における表現の自由を考える場合、その限度はイスラム教に関してどうなのか。
これはまさに紆余曲折の途上だという気がします。
一方で、オリヴィエ・ロワ氏が言うように、イスラム教に対する悪趣味なまでの風刺が通用するところがあり、他方で、イスラム教に関する風刺は一切できない=イスラム教を批判することができないという雰囲気への不安が漂っています。フランスの新聞が示した反応は、後者に対する拒絶であり、それが「自分達の理念を押しつける高慢な態度」ととられがちですが、実は不安による「防衛反応」(fenestarae氏)であるという見方もできます。

イスラム教徒はフランス社会において立場が弱い場合が多いといえると思います。
フランス社会の中で色々な差別は存在するし、その犠牲となるカテゴリーの者たちは往々にして抗議の声をあげられない、又は声をあげても無視されがちです。
だから、その声を聞くことは民主主義社会にとって重要なことだと思います。表現の自由を民主主義社会にとってまもるべきものと考えるなら、かき消されがちな声にも耳を傾けるべきだと思います。
しかしだからといって、常に犠牲者であることを主張してすべての権利を通すことはできないのは当然だということも付け加えておきたいと思います。もしそうしたなら他の犠牲者を生み出すことになります。力関係をただ転倒するだけでは意味がありません。

ヨーロッパ対イスラムという国際的な構図については言及しませんが、フランス国内に限っていえば、反動的な憎悪を煽りあわないような調和した関係が築かれる日がくるとよいなと思います。
ジャメル・ドゥブーズが、「マイノリティも尊重されるべきである」と言い、「サルコジやデュードネは国民を分裂させ対立させる」と批判するとき、とても共感をおぼえます。
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