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Qui etes-vous William Klein ? 5eme (et derniere) partie ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?その5(最終章)~

 2006-01-31
ウィリアム・クラインは1970年代を通して多くのCM作品を手がけている。
彼は1972年から1982年の10年間で、実に250ものCM撮影をした。しかし、広告という消費社会の重要なファクターに関わりつつも、クラインはメディアにのせられやすい消費社会を風刺した映画を制作する。

1975年から1976年にかけて、「Le couple temoin(モデル・カップル)」というフィクション映画を手がける。
もともとは「Demain la ville」というタイトルでひとつの新しい街、何もないところに突然建てられたモデル・タウンについての映画を構想していた。その映画の一部としてモデル・ハウスに入った一組のモデル・カップルが現れるはずであった。しかし十分な予算がなく、クラインはアイデアを縮小せざるをえなかった。
20060131234314.jpg果たして、ストーリーは次のようになった。国に選ばれた一組の若いカップルが、近未来的でモダンなモデル・ハウスに入居し、生活する。しかしただ生活するのではなく、新しい商品を与えられて次々に試さなければならない。また、社会心理学者や未来学者が彼らをつぶさに観察しコメントを加える。更に野次馬的な一般人たちがモデル・ハウスにやってきて、珍しい動物を見るかのようにモデル・カップルを観察する。
この映画では、国家に密かに誘導される大衆社会へのクラインの冷ややかな視線が感じられる。

ところで、クラインの商業ベースの活動(CM撮りやファッション写真撮影)と彼が自分のために制作する映画の間に矛盾があると指摘することができるだろう。それについて、クラインはこう語っている。「『Le couple temoin』を制作したとき、配給会社が金を持ち去ってしまった。百万もの借金があった。確かに僕は、それを返済する為に数年間たくさんの広告をやった。ファッション写真も同じだ。もし生活のために稼ぐ必要がなかったら、そういう仕事を決してやらなかっただろう。」「借金を支払うために、広告制作に多くの時間を過ごした。それはどちらかというと失われた時間だった。」

ほぼ映像に偏った活動が続いたが、1978年、写真界にも顔を出す。アルルで開かれた国際写真展から特別招待を受ける。

1980年にアメリカでリトル・リチャードについてのドキュメンタリーを撮ったあと、1981年にはフランスで別のドキュメンタリー「The French」を撮影する。
the_french.jpg「The French」は英語で「the French Open」と呼ばれるテニスの全仏オープン、ローラン・ギャロスの映画である。このドキュメンタリー撮影を持ちかけられて、テニス好きのクラインが断るはずがなかった。クラインはフリー・パスをもらって選手控え室までカメラを持って入り込み、選手たちの勝負前の様子、テレビを見ながらの反応、マッサージしてもらうヤニック・ノアや、寡黙で知られたイヴァン・レンドルの笑顔などを撮影した。このドキュメンタリーは最終的に3時間という長さになった。

1982年から1984年にかけて、「Liberation」「Sunday Times」「Leica」などに依頼されて写真活動を続ける。
1983年にポンピドゥー・センターにて展覧会。

映画の分野では、80年代以降、クラインの批判的な鋭さは段々と角がとれていったようである。
1984年、フランスのスポーツ選手たちをスタジオに呼んで「Ralentis」を撮影。NASAに借りたカメラのおかげで、極端なスローモーション映像を実現。
1985年、当時の文化大臣、ジャック・ラングの命によりフランスにおける若手ファッションデザイナーをフィルムにおさめる(「Mode in France」)。

1986年、フランスにおいて「Grand Prix National de la Photographie(写真部門ナショナル・グラン・プリ)」受賞。
1989年には「Officier des Arts et lettres(芸術・文化功労2等勲章)」受勲。

1990年代、クラインは絵画(というかペインティング・アート)にも戻ってくる。
20060201025755.jpg「他人に自分のコンタクト・プリント(べた焼き)を見られるのが大嫌いだった。まるで私的な日記を読まれているみたいだから」と言うクラインであるが、そのコンタクトが彼の新たなペインティング・アートの基盤になった。クラインは自分が撮影した白黒フィルムのコンタクト・プリントの上に、カラー絵の具でペイントを施す。こうした作品は「Contacts peints(コンタクト・ペイント)」と呼ばれる。
1990年から1994年、世界のいたる都市(パリ、ニュー・ヨーク、トリノ、東京と大阪)で展覧会開催。
1993年に「In & out of fashion」制作。ファッション史を下敷きに、自身の写真やコンタクト・ペイントを織り交ぜた映画となる。

1997年より映画「Le Messie」制作開始。フランス、スペイン、ロシア、アメリカ合衆国にて撮影が行われる。
20060201025908.jpg「Le Messie」は、ヘンデルの音楽と共に映像が流れる映画である。もともとは世紀末のためのオラトリオを題材に映画を作りたいと考え、クラッシック音楽として世界で最も演奏されたであろう曲目のひとつ、ヘンデルの同名曲を主題にすることにしたらしい。しかし、ほとんどの場面で、クラインは「人間の条件、現在の生活」を照らし出そうとした。クライン本人によると彼は無宗教で、ヘンデルのこの楽曲を使用したことに宗教的な意味はないらしい。この映画の中には、ただ、悲痛で滑稽な人間の状況がある。
ところで、この映画の中で、西洋絵画の歴史を通して描かれてきたキリストに近い容貌の男性が映し出される。場所はニュー・ヨークの真ん中で、彼はただ黙って立ち尽くし、人々は無関心に通り過ぎていく。この人物が映画にあまりにぴったりくるので、キャスティングをして選ばれたのだろうとひとは考えるだろう。しかし実はたまたま撮影しようとしたところで見つけたのだそうだ。撮影グループの誰かが街角に立っていたこの男性に気付き、「キリストっぽいから彼を撮影してはどうだろうか」と言い、クラインも「いいんじゃないか」と同意して、彼に話し掛けた。「何もしなくていいので、ただしばらく立っていてください」と頼むと、この男性も撮影に承諾して、人々が行き交う中、じっと佇んだ。後にクラインは「奇跡を信じますか?」と聞かれて、「妻と出会ったこと」の次にこの逸話を紹介し「あれは奇跡だった」と述べた。世紀末のオラトリオの映画でも、クラインの明るさはどこかに宿っている。

クラインは闘士的なアンガージュマンの映画を撮ったことを否定しはしないが、本人は一度もデモに参加して腕を振り上げたこともなければ、どこかの政党に入ったこともない。いつまでも闘士的映画人と呼ばれるのは嬉しくないらしい。「僕は全くのアナーキスト」だというし、「自分の自立(independance)を守りたい」という。しかし他方で、「今日、誰が政治的な映画を撮っているか僕は知らない。映画人たちは滞在許可証のない人々のために運動をしたが、人々はうまくいくように映画を作るし、政治的な映画は大勢の観客を引き寄せられない。〔…〕『Mister Freedom』は一種の激昂の中で作られた。しかもひとは68年の人々のことを過激派と呼ぶ。しかし激昂など、今日の映画のどこに見ることができるのか、僕は知らない」と述べている。フランス映画界の事情も考えざるをえないし、彼が数々の映画制作プランを諦めなければならなかったことが思い起こされる。そしてそれ以上に、政治的指向や政治的関心の薄い社会になっているということかもしれない。
それでも、彼の昔の映画(特にフィクション映画)に見られるような闘士的な面は過去のものでしかない、とは思わない。それは次のようなエピソードにクラインの人柄が感じられるからだ。それは、アメリカの大学で、彼の映画についての討論会の最中、ひとりの黒人学生が彼の哲学は何かと訊ねたときのことだ。彼は笑って、毎朝学校で手を胸にあてて唱えさせられた「誓い」のことを話した。「…全ての人に自由と正義を」。「あの頃は、みんなよくわからずに繰り返していた。結局、今日、僕はそれ以上にひとが求めることを思いつかない」と彼は言った。

2002年には写真集「Paris + Klein」出版、パリのヨーロッパ写真館にて展覧会。

2005年12月7日より、ポンピドゥー・センターにて展覧会(2006年2月20日までの予定)。

2006年2月4日、ポンピドゥー・センター内、フラマリオンにてサイン会(予定)。
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