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Qui etes-vous William Klein ? 2eme partie ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?その2~

 2006-01-26
ニュー・ヨークについての写真集を出版した後、ウィリアム・クラインは映画監督のフェデリコ・フェリーニと知り合う。実はクラインはフェリーニのファンで、「I Vitelloni(青春群像)」の上映のためパリのラファエル・ホテルに宿泊していたフェリーニのもとを訪れ、自分の本を一冊献上しようとした。しかしフェリーニは既に彼の写真集を持っていると言い、次の映画の撮影アシスタントとしてローマに来ないかとクラインを誘った。アシスタントとはどんなことをするのかと訊ねると、フェリーニは「たいしたことない。もし僕が病気になったら君が撮影するんだ」と答えたという。そこでウィリアム・クラインはローマへ赴く。
ローマで、フェリーニは「カビリアの夜」の撮影に着手したところであった。アシスタントとして加わったクラインだが、実際には彼以外にもう10人ほどの助手がいた。更に、フェリーニの父親が亡くなったところで、ジュリエッタ・マシーナは足を骨折、複数のプロデューサーは意見が一致しないという状況で映画撮影は頓挫。娼婦とヒモ男のキャスティングのために写真を撮った以外、クラインには大してやることがなかった。そこで、ニュー・ヨークの写真を撮ったようにローマを撮影しようと思いつく。そして自分のための写真撮影が終わると、クラインはパリに戻った。
このローマの写真集は、1958年に出版された。

ニュー・ヨークの写真集は、クラインにとって映画のようなものだった。色々な出来事が起こり、路上で人々と戯れる、そんな中で写真を撮った。しかしそれを静止画像でしか保持しえないことが、クラインには残念に思われた。また、ローマの写真集を見たフェリーニはそこに映画性をみとめ、映画人になったらいいのに、とクラインに感想を述べた。
20060127003856.jpg1958年、ウィリアム・クラインは初短編映画「Broadway by Light」を製作。コダックのカラーフィルム、コダクローム(kodachrome)で撮影されたこの映画は「最初のポップな映画」と評される。オーソン・ウェルズは後に「私がそれまで観たことがない、色彩が絶対的に必要な映画」と言ったそうである。
しかしクラインによれば、ポップ性はキュビズムの作家の中にすでにあった。煙草の包装や新聞紙をコラージュに使った作品が「ポップ」であり、日常生活の中にあるものをアートとして示したことが「ポップ」である。アメリカの60年代のポップ・アートは本当の発明ではなく、それを取り戻してアメリカ的なもので仕上げたとクラインは言う。
ところで、この映画におけるクラインの意図は、ニュー・ヨークの写真集にみられるような闇の部分と同時に、美しくポップでありつつ馬鹿げていて恐ろしいアメリカ的洗脳の面を示すことだったようである。「とても美しいものが、とても暗いものと同じくらい不安を感じさせることがある。ブロードウェイはパラドックスを提供している」、「ブロードウェイは常に攻撃的なものである」とクラインは言っている。日常生活に密着しているために、普段ひとがそれについてあまり意識して考えないもの、慣れてしまってあまり問題にしないもの、そうしたものに焦点をあてるという点でポップ・アートに通じるとも言える。クラインは「それはジャスパー・ジョーンズがアメリカ国旗で、ウォーホールが缶詰でやったのと同じやり方だった」と言っている。
この映画は、アメリカン・カルチャーのファンであったクリス・マーカーはもとより、ニュー・ヨーカーでありポップ・アートの画家である友人たち、エルスワース・ケリーやジャック・ユンゲルマンの賞賛も得た。

ところで、上記のケリーとユンゲルマンは、フェルナン・レジェのアトリエ時代からクラインと付き合いがあった。彼らはパリに滞在したが、後にニュー・ヨークへと戻った。クラインは何故フランスに残ったのだろうか?
この質問に対し次のようにクラインは答えている。「彼らはニュー・ヨークのギャラリー周辺の外では自分たちが存在しないと感じたので戻った。僕はパリで暮らすことをずっと夢見ていたし、僕は疑いもなく彼らよりも政治性をおびていた。僕は50年代のアメリカに耐えられなかった。いや、もう一つ大きな理由は、家族から逃げたかったんだね。僕はパリでアーティストをやっていて、ユダヤ人ですらないフランス女性と結婚していたし…。宗教にとても忠実な両親とは、もう大して共通するものがなかった。両親は、僕が有名な叔父たちの弁護士事務所に入ることを望んだ。とんでもない。その有名な叔父たちは長編映画の前座としてBroadway by Lightを公開することを決して承諾しなかったんだから。パリでは、人々がそれを観覧することができた。特にルイ・マルが。」

すでにその頃、クラインはパリの映画人たちと交流があった。
ニュー・ヨークの写真集の件で知り合ったクリス・マーカーから、すぐにアラン・レネを紹介され、仲良くなった。知識人や文化人、特に映画人の間にはアメリカに対するある種の憧れが漂っていた時代で、マーカーとレネはクラインを快く迎えた。クラインは彼らとあまりに気が合ったので「彼らが映画を撮っているなら、僕もやろうかな?」と考えたそうである。
その他、アニエス・ヴァルダやジャック・ドゥミらとも親交があった。後にクラインはフランスで映画製作を始めるのであるが、彼らはパリの左岸におり、ヌーヴェル・ヴァーグ派のジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、フランソワ・トリュフォーらは「カイエ・デュ・シネマ」のあるシャン・ゼリゼ界隈、つまり右岸にいた。クラインによると、「僕はアメリカ人で、嘲笑的で風刺的でヴィジュアル的な映画をフランスでやっていたから、ひとは僕を闖入者とみていた。」たしかにクラインの映画は文学的なフランス映画とは異なる。
しかしそれでもクラインは、パリでは映画を撮影して公開する可能性をもつことができたのである。

クラインはレイモン・クノーが好きで、彼の小説を映画化しようと考えていた。ちょうど彼が「地下鉄のザジ」のシナリオを練っていたとき、ルイ・マルが電話をかけてきて「僕と共同監督で映画を撮らないか?」と言ってきた。20060127004143.jpg「共同監督ってどういう意味?」と訊ねると、マルは「意味はないよ、でも僕は知られていて君は無名だ。ルイ・マルの映画だとひとは言うだろう」と答えたという。次いで「でもBroadway by Lightと君の写真をみたよ。君は書物の視覚的翻訳ができるんじゃないかと思うんだ」と言った。そこで、クラインは「クノーのちんぷんかんぷんなエスプリ」を映像にしようと試みた。ラプノーのシナリオと平行して、視覚のシナリオを作成した。撮影グループのメンバーはとてもよかった。しかしクラインはその撮影現場に自分の居場所はないと感じた。1960年に公開された「地下鉄のザジ」は、やはりルイ・マルの映画となった。この映画について、クラインは「この映画はあまり好きじゃない。でもルイ・マルの他の映画とは異なっている。グロテスクな感覚と殆どポップな原色がある」と述べている。

(また続く)
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