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Qui etes-vous William Klein ? ~ウィリアム・クライン、お前は誰だ?~

 2006-01-25
一昨日、展覧会から帰宅後、過去に読んだウィリアム・クラインのインタビューを引っ張り出して再読。「Les Inrockuptibles」は、なんとウィリアム・クラインのインタビューページを開いたままで出てきた…。それと一緒に「Cahiers du cinema」のコピーが。あれっこんなのもあったけー、と、ちっとも覚えていません。どこからコピーしてきたんだろう。ご丁寧にマーカーで線が引いてあったりして恥ずかしい。何をやっとんじゃ。

それはともかく、せっかくだからウィリアム・クラインについてちょっとメモしておこうと思った次第。20060125172208.jpg「Les Inrockuptibles」は、パリでウィリアム・クラインの映画特集をやっていた時期の1998年2月18日号。(バーコード横の「15F」という表記が懐かしい…。)「Cahiers du cinema」も同時期のもので、二つのインタビューは主にクラインと映画の関係に焦点をあてており、内容がいくらか重複。そのなかから抜粋していきたいと思います。
あ、そうそう、先日、たまたま聞いていたミュージック&カルチャーラジオ局・Radio NOVAで、ウィリアム・クラインのインタビューを放送していたので、そこで聞いた話も織り交ぜながらウィリアム・クラインというアーティストの軌跡を辿ってみたいと思います。



ウィリアム・クラインは1928年ニュー・ヨーク生まれ。セントラル・パークの端っこ、5番街と109番通りの交差する辺りで育ち、同じ建物にはイタリア系移民のニューヨーク市長(フィオレッロ・ラガルディア?)も住んでいたとか。ウィリアム・クラインは幼少の頃、成績優秀で、両親の自慢の種だったらしい。彼によると、クライン一家は、親戚との電話で子どもの成績の話に熱心だったそうだ。何故なら当時のユダヤ系家族は子どもを大学に入れてそれなりの地位につかせたいと願い、彼らにとってそれが大事なことだったから。しかし幼いウィリアム、通称ビルは映画とコミックスが大好きで、日曜の朝は空き瓶を集めて換金し、午後はそのお金で映画を観に行っていた。彼のその後を考えると、映画ファンの家庭、又は映画界に馴染んだ家族を想像しえてもおかしくはないが、実際にはどちらかというと映画とは関係の薄い環境だった様子。親戚の中には、20世紀FOX社の創設者の一人がおり、パラマウント社の主要弁護士を務める者があったが、彼らは映画製作については全く無知であったらしい。両親も同じくあまりそういったものに興味がなかったようで、彼によれば「父の趣味はひどかった」そうである。オーソン・ウェルズがラジオで「火星人襲来」を演出して街の人々がパニックに陥っていた頃、彼の家では全く違う局を聞いており、他のアメリカ人たちとその歴史的経験を分かち合えなかったことが悔しかった、と回想している。

幼い頃から画家になろうと考えていたウィリアム・クラインだが、ニューヨーク大学では社会学を専攻。美術については自分で本をみればいいし、大学には社会学の面白い教授陣が揃っていたからだそう。
その後、兵役で軍隊に入り、終戦後に渡欧、アメリカ占領軍としてドイツに滞在。ゲッペルスが収集した美術品の監視役をしていた。
仏米交流会に招かれ、「フランス娘をナンパしようと」パリにやってきたのは1947年。そこで美術学校に入ろうと考えていたところ、道端に美しいフランス娘が立っていた。クラインは彼女に話しかけ、美術学校について質問し、一緒にお茶を飲んで、彼女はその後、彼の生涯の妻となった。「妻との出会いは奇跡だった」と言っている。

ウィリアム・クラインは昔からヘミングウェイやフィッツジェラルド、ピカソなどのイメージで夢見ていたフランスに残った。しかし画家になろうと決めていたクラインが辿り着いた戦後のパリの絵画の世界はあまりぱっとしない状況であり、例外はフェルナン・レジェだった。そこで、アンドレ・ロート、次いでフェルナン・レジェのアトリエに入った。ウィリアム・クラインはバウハウスとロシア構成主義に傾倒し、そのデザイン、タイポグラフィー、絵画、写真という多岐にわたるマルチディシプリナリティに触発された。この「全てをやる」というアイデアはその後の彼の芸術的態度に強く影響しているようだ。絵画の面では、当時の(1950年代の初め)ニュー・ヨークでアクション・ペインティングが流行っていたのに反し、ウィリアム・クラインは抽象幾何学画を描いていた。「僕たちはロマンチックで感情的な筆づかいを自制した。〔…〕スローガンは『二つの次元、頭の中に全てがあり、キャンバスはミニマムに』となった。」
そして1951年から1952年にかけて、ブリュッセルとミラノにて絵画展覧会。イタリア建築家と壁画を手がける。イタリアの「DOMUS」という雑誌の表紙をいくつか担当した。
また、この頃、マルチディシプリナリティということで写真にも手を出し始め、クラインは抽象写真を発表する。

1953年、雑誌「Vogue」のアート主任、アレクサンダー・リベルマンと出会い、翌年には彼の招待で出身地のニュー・ヨークに戻る。そこでクラインは日記的な写真を撮る。つまりは彼の視点によるニュー・ヨークの日常を記録したものである。これらの写真は、アメリカの出版社からは出版を拒否された。理由は、彼のうつしたニュー・ヨークは汚いニュー・ヨーク(New York de merde)だから。クラインは「だけどそれがニュー・ヨークじゃないか!(Mais New York, c'est la merde!)」と思ったそうである。これらの写真が本となったとき、クラインは「Life is good and good for you in New York」というタイトルをつけるが、それは皮肉をこめてだった、と言っている。
結局この写真集が日の目をみたのは1956年、それもフランスにおいて。出版にこぎつけたのはクリス・マーカーの力による。映画監督として有名なクリス・マーカーであるが、彼は当時Seuil出版社で「Petite Planete(小さな惑星)」というシリーズものの編集を担当していた。パリに戻ったクラインは、このシリーズの中に自分の写真集の出版の可能性があると考え、彼とコンタクトをとった。クリス・マーカーは出版社に対し「これを出版しないなら辞職する」と脅したそうである。

ところで、ニュー・ヨークで日常を撮影し、それらが出版されるまでの間に(1955年)、クラインは「Vogue」のファッション写真を撮る仕事を始めた。他の活動と平行して、不定期にであるが、これは1967年まで続く。機材や環境を整えてのファッション写真撮影の経験は、その後の映画製作に役立った。「お金以外で僕が興味があったのは、『リッチ』な撮影を学ぶことができることだった。自分のために撮った写真は貧しいもので、一つか二つのレンズしか使わずアシスタント無し、カラー無し、演出無しだった。モードの世界では、大きな画面、フラッシュ、カラー、装飾を使うことができ、そして何より演出のようなものができた。そこで多くを学び、それが映画に向けての第一歩となった。」

(続く)

※1月27日、一部修正。
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