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1月の終わり、ジェームスからメールがきた。
ジェームスは数年前に大学で同じ講義に出席していた。最後の試験では、時間中に答案を仕上げられず、彼と私は先生の許可をもらい、大学構内のカフェで一緒に(といってもそれぞれ黙々と)書き上げたのだった。 彼に最後に会ったのは、もう3、4年ほど前。新年度の登録に必要な書類をかき集め、大学内をうろうろしていたところ、ジェームスとばったり出会った。ずいぶん久しぶりなのに、向こうも覚えていてくれた。「今、映像の仕事にかかりっきりなんだ。よかったら遊びに来て」と名刺をもらったけれど、結局、その後連絡しないまま月日が経ってしまった。 そのジェームスからのメールには、英語で「僕の映画にエキストラ出演してくれて、ありがとう(もう3年も前のこと!)。近々上映会があるので、そのお知らせです」とあった。はて??彼の映画にエキストラ出演などした覚えは全くない。それに、最後に会ったとき映像関係の仕事をしていると聞いた気がするけど、映画を制作しているとは知らなかった。彼とは英語で話したことなどないから、英語のメールというのも不思議だ。多分、誰かと間違えたのだろう。 それにしても、名刺をもらって連絡しなかった不義理にも関わらずメールをもらい、彼の柔和な笑顔を思い出し、ちょっと興味が湧いたので行ってみることにした。 上映場所は、ベルシーのシネマテーク。数年前から新開発が進んだこの地区にシネマテークが移ったのはいつだったか。比較的新しいシネマテークに足を運んだのは今回が初めて。 ジェームスが監督した映画、「1, 2, 3, WHITEOUT」は「seances decouverte」の枠内での上映。新人発掘のために設けられた枠なのだと思う。 上映前の挨拶で監督が一言付け加えたことには、この映画はなるべくならストーリーを追わないで欲しい、実験的映像の集合体でもあるから…という。たしかに、パンフレット内の短い解説にも「何よりもまず視覚と聴覚の実験的映画である」と書かれている。 正直に言って、ストーリーがあるようで全くないに等しくただ意味ありげな(それでいて意味のなさそうな)映像があふれるばかり…というアヴァンギャルドな映画は、観ていて辛いときがある。ジェームスの映画もそのようなものなのだろうか、と、少し構えて観ることにした。 ところが、予想とは違い、ストーリーの骨格はしっかりとそこにあった。 近未来的な都市で、失業中のヴェロニックは、ひょんなことから胡散くさい発明者の手伝いをすることになる。発明者は、ヴェロニックの協力で完全な闇を投影する装置を作り上げる。また、ヴェロニックは、外からの光をただ受動的に与えられて生きる世界の中で、内なる光を見出し始める。他方、ヴェロニックの兄、アリックスは、人々を監視する警察で働いており、ヴェロニックの変化に気づいて彼女が何をしているのか探ろうと試みる。そしてアリックスはついに発明者のもとに捜査にやってくる…という物語。 ストーリーの進む中で、遊園地や広告のネオン、移動するライト(車か船?)に照らされる建物、暗視スコープで見る爆撃の火花、ミラーボールの反射する光などの映像が、交互に繰り返し映し出される。それらは、時に記憶の中の光、時に計算された光、人工的な光、知らず知らず誰かに方向を指し示されている光…。 この映画は、実際に存在する場所を使って撮影が行われており、特別に作られた風景セットはない。それなのに、というか、それだからこそというか、昔の近未来SF映画のような雰囲気に仕上がっている。例えば、フランソワ・トリュフォーの「華氏451」、リュック・ベッソンの「サブウェイ」(これは近未来SFではないが)を彷彿とさせる。これもカルト的人気がちょっと出てもよさそうな映画だな…なんて思った。 自分の興味にひきつけて解釈するなら(多少強引かもしれないが)、一言でいえば監視管理社会への反発が根底にあるのではないか。このテーマは、例え手垢にまみれても古くならない。監視管理社会化は止まらないから。 そしてそれは政治的行動の監視や管理ではなく、もっと日常的なレベルまで浸透したもの、例えば消費行動といったものの管理を問題にしているのではないか。 主人公とストーリーが映画を引っ張っていき、それに巻きつきながら様々な映像が広がる。実験的とはいえ、最後まで見させることに成功していると思う。(約1時間15分というのもちょうどいい長さだと思う。) 音楽も近未来SFチックな雰囲気にマッチしていた。映画の中で不思議な歌を歌っているのは、まみちゃんバンドのエミコさん。彼女とはずいぶん昔、映画のエキストラでご一緒させていただいたことがあった。上映後、声をかけたら、もちろん私のことなど覚えているわけないのだが、気さくにお話してくれた。尖ったところのない、いい人です。 また、ジェームスとも話す機会があった。メールは、やはり間違って送られてきたようだが、私のことをちゃんと覚えていてくれて、大学の話などもした。彼はスタッフや多くの友人知人に囲まれていたので邪険にされるかと思っていたが、全くそんなことはなかった。彼の温和で落ち着いた雰囲気にはほっとさせられるものがある。それでいて自分が信じるところは曲げない強さがある。彼が多くのスタッフの意見を聞きながらまとめあげ、ひとつの映画を仕上げられたことは、彼の人柄によるところもあるかもしれない。何にしても、時間をかけ、やりたいことを実現したジェームスはすごいと思った。見習わなければ。 すでにいくつかのフェスティバルに参加しているようだが、これからも上映される機会があればいいなと思う。多くの人の目に触れず埋もれてしまうには勿体無い映画。 検索してみたら、You Tubeに予告編(?)がありました。 |
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遅めの夕食のテーブルについて、TVをつけてみたら、ARTEで映画。「チャーリーとチョコレート工場」。しかし、ティム・バートンではありません。途中からだったのですが、雰囲気は60年代〜70年代初期。サイケデリックな雰囲気などもあり。ティム・バートン以前に映画化されていたのを知らなかったので、興味津々で観ました。ついつい見聞済みのもの(ティム・バートンのは去年、観た)と比較してしまいますが、ギャップは感じませんでした。ティム・バートンも原作に忠実なストーリー展開にしたのかな。(って、原作、読んでないんだけども。)
TV番組表でみたら、この映画は1971年製作。シナリオは、原作者のロアルド・ダール自身が手がけていました。ストーリーは、ティム・バートンのとほぼ同じ(当然)ですが、こちらの方が教訓的な面が強調されていた感じ。現代版は、後半で精神分析的にウィリー・ウォンカの子供時代などが出てきて、チャーリーだけでなくウォンカ自身も幸せになるところまでを描いていて、チャーリーとウォンカで主人公を二分しているのですが、後者の方がスポット当たってる感じでした。が、今日みた映画ではチャーリーが中心的。そして、ウィリー・ウォンカは、ストーリーの中で文字通りの意味でも、映画の構成上でも、案内役。チャーリーのおじいちゃんも、孫を支える存在として主人公の相棒的役割。ティム・バートンのものより、おじいちゃんの存在が目立っていたような。全体的にみて、ティム・バートンのよりも、焦点がはっきりしたパースペクティブで構成されており、バランスが良かったかもしれません。この映画、商業的には成功しなかったようですが、70年代のサイケっぽさが反映された映画が好きな私としては、なかなか良かったです。それから、ユーモアたっぷりなところは、ティム・バートン監督の映画と共通している…というか、ティム・バートンもそのユーモアが好きだったから映画化したのかな。 ちなみに、ウィキペディアで調べてみたら、邦題は「夢のチョコレート工場」でした。 |
昨夜9時頃、何の気なしにTVのチャンネルを変えていたら、France3でたまたま映画が始まった。なんだか古い映画のようだけど、タイトル前クレジットに出る会社名から推測するとどうも最近の映画っぽい。「catoon」という文字に「あ、アニメかな?」と思いながら見ているとやっとタイトル「Les Triplettes de Belleville」(邦題は「ベルヴィル・ランデブー」)。やっぱりアニメ、でも友人(半アニヲタフランス人)が「なかなかよかった」と言っていたし、公開当時のポスターでなんとなく興味があったのでチャンネル固定。(以下、ネタバレ含みますのでご注意。) |





