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東西ドイツにおける敗戦直後の喪の作業 その4

 2006-12-18
その1その2その3からの続き)

西ドイツでは、東ドイツとは違った様式で、ナチスの過去の抑圧と否認が進行した。東ドイツでは反ファシズムであったが、西ドイツでは反共産主義が前面に押し出されて、それが集団的心理防衛力を牽引した。そして、特に経済が重要な役目を果たした。

反共産主義は、実はナチスのイデオロギーの延長である。共産主義とユダヤ人は共にナチスの敵であり、ナチスはボルシェヴィキとユダヤ人を表裏一体とみなしていた。例えば、第一次世界大戦の大敗の責任があると糾弾されたローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトはユダヤ人であった。しかし、多くのドイツ人にとって、反共産主義は戦前の価値観のつながりを保つのに恰好であった。背景には冷戦もあり、反共産主義は連合国にとっても都合が良かった。
反共産主義はソ連への敵対心を煽り、ソ連と協調しているドイツ民主共和国との分裂を深めた。そして、ドイツ民主共和国と同じドイツであったことなど思い出したくもないといった傾向に導かれた。つまり、1945年以降、西と東のドイツは、地理的だけでなく時間的にも分裂した。こうして、西ドイツにとっては東ドイツが犯罪的な部分となり、反対に東ドイツにて西ドイツはナチス政体の続きであると宣伝された。強迫観念的な心理メカニズムによって、自己の罪悪感は否認され他者へ投射されたのである。

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東西ドイツにおける敗戦直後の喪の作業 その3

 2006-12-17
その1その2からの続き)

ドイツ連邦共和国における喪の作業
連合軍(米・英・仏)の指導のもと、西ドイツでは東ドイツとは異なった政策がとられた。即ち、集団的罪悪感に訴える方針がとられた。

西ドイツにおける防衛反応は、目の前に突き出された現実の残酷さによって強化された。アメリカとイギリスが政治宣伝に使ったイメージ(映像・ポスター)は、現実の惨状をうつしたものであったが、あまりのむごさに国民は耐えられず目を背けようとした。この反応は連合軍が強制収容所を解放した際、その状況を目のあたりにした時の反応と同じであり、心理メカニズムの防衛反応として、おかしなことではない。
しかし、こうした反応は、イメージの残酷さだけに因るものではない。イメージに添えられた「あなたがたドイツ国民全体の責任だ」といった文章に想起される罪悪感を拒絶する反応でもある。
とはいえ、残酷なイメージを宣伝したことが悪いと言うわけではない。イメージのみが、知らなければいけない現実を教えうるであろう。1945年5月から、米英は週刊TVニュースを放映し始めた。これは月に2500万人のドイツ国民が視聴していた。映像を伴ったニュース番組は米英の教育の一環であった。

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東西ドイツにおける敗戦直後の喪の作業 その2

 2006-12-13
その1からの続き)

ドイツ民主共和国における喪の作業
ソビエト連邦の占領とそれに導かれた抑圧的な政策により、ドイツ民主共和国においては、国民の犠牲者意識が強まり、反面、罪悪感が軽減された。
ピエール-イヴ・ゴダールは、ある逸話を取り上げている。それは、ラーフェンスブリュック女性収容所があったフルステンベルグという街で起こった出来事である。1992年、旧強制収容所の敷地内、かつての囚人の手によって敷かれた石畳の上に、スーパーマーケットを建設する計画が進められた。これには世界中から抗議の声が上がり、結局、計画は中止を余儀なくされた。しかし、その街の多くの住民は、計画に反対する人々の怒りが理解できなかった。ソ連の支配下と40年にわたる社会主義による貧困を生き、博物館や記念碑訪問といった毎年の義務を長年果たしてきた後で、やっと普通の生活を送ることができるのは正当だと考えていたからである。スーパーの建設は、彼らにとって、時代の変化と不運からの脱出の徴であった。
この逸話に、東ドイツの人々が自分達を犠牲者と感じていたという面が現れているといえよう。

ところで、東ドイツでは、戦後すぐにナチスの罪と虐殺についての反省が現れた。それは特に、亡命から戻ってきたユダヤ系知識人によってなされた。「水晶の夜」の10周年追悼式が行われたのも、1948年、ソ連占領下においてであった。
しかしながら、次の追悼式は1988年まで待たなければならない。この40年の空白は、反ファシズムによる戦後再建の時代を意味している。

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東西ドイツにおける敗戦直後の喪の作業 その1

 2006-12-09
シンポジウムからはや一週間経ってしまいました。が、まだ書いておこうと思っているものがあるので、続き。
もうひとつURSS関連で、ベロモルカナルという、白海とバルト海をつなぐ運河の建設にまつわる本についての発表もあり、これも日本語サイトで検索してみたらあまり知られていない様子だったので、ちょっと書きたい・・・と思っていたら、同じシンポジウムに出席したchaosmosさんがまとめてくださったので、そちらに丸投げ。(TBもいただいておりますが。)

さて、クラフチェンコ事件で、「国の自尊心に関わる」という点に着目してみたわけですが、これは同じシンポジウムで、フロイトの理論を援用しながら東西ドイツの戦後の違いを分析したピエール-イヴ・ゴダールの「RFA-RDA:des memoires en miroir」という発表が想起されます。ゴダール氏は「Le fardeau de la memoire」という本を1997年に出版しており、発表はその中の2章を要約した内容でした。シンポジウムの前に最初の数十ページを読んで予習したので、発表以外の部分も合わせ、かいつまんで(?)ご紹介したいと思います。専門の方にとっては新しいものは見当たらないと思いますが・・・。ただ、日本からいらしたドイツ専門の先生は、精神分析的視点を取り入れているところは面白いと仰っていました。もしかしてそれってフランスっぽいのでしょうか。でも、逆に、精神分析を専門にしてる人(特にラカンなどやっている人)にとっては「援用ってそれだけ?」って感じかも。なお、シンポジウムの栞によると、ピエール-イヴ・ゴダールはパリ第4大学の先生。ぐぐってみたら、パリ第5大学でも教えていたようです。専門は何なのかよくわかりませんでした(精神分析なのか社会学なのか・・・文化人類学という話もあったけど)。



ピエール-イヴ・ゴダールはその著書の中で、まずフロイトの「集団心理学と自我の分析」を想起しつつ、ヒトラーとドイツ国民の関係を分析している。フロイトはその論文で、軍隊と教会を例にとりながら、集団の心理がどのように形成されているか、理論展開を試みている。そこでは、まず集団を統率する者が各メンバーの自我理想となり、同じ自我理想を抱く同胞が互いに同一視することで結束する、と説明されている。ゴダール氏によれば、ナチス下のドイツも同様で、ヒトラーが国民の自我理想となっていた。ドイツ国民はこの自我理想に圧倒的に魅せられ、欲動(リビドー)は自我理想となった対象に大量に備給される。そうなると自我への欲動備給が少なくなり、自我は貧困になる。弱まった自我にとっては、自我理想的対象の指示に従うことが悦びとなり、無批判にそれを受け入れるようになる。そのような状態の集団がヒトラーを失うことは、それまでの多大な欲動備給の対象を失うことである。行き場のなくなった欲動を撤収しなければならないが、貧弱な自我にとってこの撤収作業は難しい。このような観点から、敗戦直後のドイツ国民に戸惑いがあったこと、喪の作業(フランス語でいうところのdeuil)が非常に困難であったことは、容易に想像しえる。
他方、ドイツ国民は戦後、自らの名のもとに恐ろしい行為が行われていたことを知らされ、あまりのことの重大さに罪悪感を背負いきれず、目を背けようとしたことも、心理メカニズムの面からみれば理解可能である。つまり、自我が罪の意識に押しつぶされないように防衛機能が働いた、と考えることができる。この過多な罪悪感は、自らの名によって殺された犠牲者に対する喪の作業を困難にした。
このように、ピエール-イヴ・ゴダールは、ドイツ国民にとって二つの点で喪の作業が困難であったことを指摘している。

ところで、戦後、ドイツは戦勝国によって二分された。ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国、すなわち東ドイツと西ドイツである。前者はソ連に、後者は連合国、米・英・仏の三国に、戦後処理を任せられた。二つの地域で、戦勝国による戦争責任の問われ方は異なった。ソ連は、ヒトラーとナチス政権に責任がありドイツ国民には罪がない、という姿勢で臨んだ。それに対して連合国側、特にアメリカは、ドイツ国民全体に対して「あなたたちの責任だ」とはっきりと非難を述べ、集団の罪悪感に訴えた。この戦後指導の方針の違いは、冷戦激化の中で、やがて二つのドイツの分裂を深めることへとつながっていく。

(続く)

クラフチェンコ事件 その3

 2006-12-06
その1その2からの続き)

ところで、クラフチェンコはなぜフランスで裁判を起こしたのだろうか?彼は、すでにアメリカ国内で、自分の書いた本に対する抗議を受けていた。
クラフチェンコはパリへ到着してからの記者会見で、「自由世界の国でこの裁判が行われることを望んだ」と答えている。更に、冷戦構造の中でフランスが微妙で重要な立場にあることを、彼は意識していたのではないか、ともいわれている。

また、フランスの共産主義者たちは、なぜ「Les lettres francaises」の記事に現れるような過剰なほどの反応を見せたのであろうか?
第二次世界大戦後、フランスの共産主義のイメージは戦時中のレジスタンス運動と結びついている。ドイツ軍占領下にあって、ナチス及び対独協力的なヴィシー政権への抵抗運動に参加した者の多くは、共産主義的な人々であった。ロンドンに亡命していたド・ゴール将軍が、解放された直後のパリへ急いで戻って国民の歓呼に応えたのも、共産主義者の国内レジスタンス派よりも自らの働きが大きかったと内外に印象付けるためだったといわれる。つまり、共産主義者がレジスタンスに果たした役割はそれだけ大きかったということである。戦後のフランスにおいて共産主義は好意的に受け取られていた。実際、当時の共産党は議会の3割弱を占めており、社会党、MRP(人民共和運動)と並んで重要な政党のひとつであった。その時代のフランスにあって共産主義を攻撃することは、レジスタンスを攻撃することに近かったのである。
ところで、レジスタンスはフランス国民にとって英雄であった。しかし、戦時中、対独協力した者は少なくないはずである。生命の危険に及ぶ状況では、意に反してそれを選択した者もいたであろうが。戦争が終わると、対独協力者の処罰が問題になった。抑圧からの解放により、ナチスに対する憎悪が爆発して、対独協力者に対するリンチめいた制裁も起こった。それは、フランス国民が戦時中に受けた傷の膿が出たものと言えるであろう。戦後、この傷を忘れるため、ひとたびヴィシー政権への懲罰措置がとられると、時代に区切りをつけ、「フランス国民は皆レジスタンスとして戦った」という神話に逃げ込むようになった。つまり、当時のフランス人にとって、レジスタンスはひとつの自尊心であった。レジスタンスが攻撃されるということが、当時の多くのフランス人にとって耐え難かったであろうことは、容易に想像されえるだろう。
そして何より、「Les lettres francaises」はレジスタンスのさなか、ドイツ軍に銃殺された高校教師によって創設され、戦後は共産主義者の中核をなす雑誌であったことは付言に価する。

また、フランスの共産主義者の多くはソ連のことを、理想を実現した国、パラダイスである、と信じたがっていた。クラフチェンコ以前にも、ソ連の実状を伝える手記はあったが、ほとんどが亡命者か右派思想の作家によるものであった。フランスの左派たちは、それを「証言」ではなく「対立派が書いたもの」として受け取っていた。しかし、クラフチェンコは、平凡な一般市民として、彼自身の日常的な経験について、家族のことや恋人たちのこと、監視のもとで飢えと不衛生に苦しんだ学生生活など、単純で親しみやすい筆致で綴った。これは、フランスの共産主義者たちのそれまでの態度を揺るがした。

さて、後回しになってしまったが、「Les lettres francaises」の記事の具体的内容について触れておこう。その記事はシム・トーマスというアメリカ人記者の署名がなされている。彼は、CIAの前身OSSに属するある人物からクラフチェンコに関する情報を得たという。クラフチェンコはアメリカのスパイで、反ソ連の政治宣伝的な本を書くよう司令を受けたというのだ。更に、クラフチェンコ自身についての逸話も挿入されていた。そこでは、クラフチェンコは「無学で酔っ払い、詐欺師、精神薄弱者、放蕩者であり、彼はボーナスをもらう為、URSSで偽の収益報告書をでっちあげ、借金返済のためにアメリカの諜報部にサインを売った」と言われている。
クラフチェンコはこの記事に非常に驚いた。彼はシム・トーマスなる記者のことは聞いたことがなかったし、アメリカでそんな記者のことを知る者は誰もいなかった。そこで、「Les lettres francaises」に、この記者について問い合わせたが、うまく逃げられてしまった。クラフチェンコがパリに到着して記者会見を開くと、フランスのこの雑誌も対抗して記者会見を開き、シム・トーマスは存在するしロシアに強制収容所などない、と言い張った。しかし、じつはシム・トーマスは架空の人物だった。30年後に出版された、「Les lettres francaises」のディレクターだったクロード・モルガンの回想録によれば、シム・トーマスの記事はアンドレ・ウルマンが持ってきたもので、彼こそが真の筆者だったのである。

つまり実際に、存在しない人物によってでっちあげられていたのは、クラフチェンコの本ではなく、「Les lettres francaises」の記事の方であった。
お粗末な事実のわりには裁判がこれだけ大きなものとなったのは、共産主義者たちの強烈な否認に因るといえるであろう。
しかし、この否認を、私たちは嘲笑したり、単純に無反省に非難したりすることはできない。先に述べたように、この否認は国民の自尊心に関わるものであった。愛国的自尊心を擁護することなしに自国の暗い過去の責任を語れない傾向が顕著になりつつあるのは、最近指摘されるところである。現在みとめられるこうした傾向と、クラフチェンコ事件にみられるような否認の間に、どれだけの距離があるであろうか。



これは、シンポジウムで発表された内容そのままではなく、発表中に紹介されたことを検索して確認し、自分なりの視点を盛り込んだものになっています。
ちなみに、シンポジウムではパリ第8大学の歴史・文学研究者、クロード・ムシャール(Claude MOUCHARD)名誉教授による「Retour sue l'affaire Kravchenko」という発表でした。

クラフチェンコ事件の詳しい内容について、主に参照したのは、Conscience politiqueサイト内、「Chapitre 3 : Kravchenko : "J'ai choisi la liberte !"」

戦後のフランスにおけるレジスタンスの状況は、渡邊啓貴著「フランス現代史」(中公新書)を参考にしました。

※12月7日、訳の一部を修正
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