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すっかりご無沙汰してしまいました。
身のまわり・・・というか自分自身に色々と変化があり、動き回っていて、しばらくネットができない環境にいたので、久々の更新です。 何もかもが一変してしまって、これから自分の何をどれだけ維持できるのか、維持すべきなのか、まだわかりません。すべてについて、手探りしながら構築していく途上にあります。このブログの今後もどうなっていくか、自分でもわかりません。内容がだいぶ変わっていくかもしれないし、更新されなくなるかもしれません。でも、何よりまず、なかなか会えない友人たちに日常を伝えることもこのブログの目的のひとつにあるので、細々と続けたいと思っています。 そんな感じですが、これからもよろしくお願いします。 ついでに私信:町田康の文庫本はちゃんと手元に届きました。ありがとうございました! |
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一週間ほど前、なかなか連絡がつかないIさんがどうしているか気になり、彼の職場に行ってみた。果たして彼はそこにいた。ちゃんと生きていたようだ。よかったよかった。「仕事がもうすぐ終わるから」と、後でカフェにでも行こうということになった。そして結局、カフェでビールを飲んでいたら雨が降ってきたので、そのまま夕飯も食べることになった。
パリ市内のとあるお店で働いているIさんであるが、本来は画家さんで、郊外で絵を教えたりもしている。「何でもイメージに置き換えないと頭で理解できない」というが、よく本も読む人で、いつも面白い話を聞かせてくれる。 先日、マイミクさんの日記で墨絵のことが書かれていて、興味がひかれたのでその話をしてみた。絵と書道に使う墨は違うものなのかという素朴な疑問をぶつけてみたら、「もともとは絵に文章がついていたのだから同じ物だろう」と言う。それから書の話になった。 石川九楊という、書道家で書道研究者の人の本に書いてあるらしいのだが、中国の書は3500年の歴史があり、もとは骨や石に文字を刻みつけるところから始まったそうだ。しかし、運搬に適さなかったりして、実用面の問題から、次第に紙に書き付けられるようになった。紙が使われ始めた頃は、「あまり信用のない代物」「仮のもの」と考えられていたらしい。結局、そのうち紙が主流になった。しかし紙面上の書には、彫刻の性格が残っているそうである。例えば、ゆっくりと筆を落としたままにしていると、墨汁は紙にどんどん染み込むが、この染み込み度は文字を刻み付けるときの深さに相応するという。また、書をしたためるとき紙の下にフェルト地を敷くが、この細かい毛羽立った下敷きが紙を宙に浮かせ、書は空中でなされる。つまり、書は形而上学的になされるものなのだそうである。そのため、この下敷きは、なんでも良いわけではなく、例えば同じ性質の生地でも使い古した毛布などはもってのほか、そのような日常に密着したものを使ってはいけないのだそうだ。 書がそのように奥の深いものだとは知らなかった。先月一時帰国したとき、少し気になって、日本で硯と筆を買ってこようかと思ったけれど、硯は重いのでやめたのだ。多少無理してまで荷物に入れようというまでのやる気がなかったということもあるけれど。ちょっと後悔。まあパリでも売っているところはあるし、その気になれば手に入るのだけど…なんせ小学校の頃から書道はめちゃくちゃ苦手、ノートの字も汚い、祖父が書道家だったと誰が信じるであろうか…そんな私が手習いを始めても続くかどうか全く自信はない。そのまま墨で絵をかいてしまうかもしれない。(実は絵はわりと得意。) それから、Iさんが自分の完成しない絵について話してくれた。ある意味、彼の人生がその完成しない絵に投影されていることがわかって、彼にとって絵を描くことがどれほど重要であるかに思いをめぐらせた。どうかいつか完成できますように。 Iさんにとっての絵のように、自分にとってそれくらい大事なものって何だろうと最近考える。もしかしたら、今まで諦めてしまったもの、捨ててしまったものの中に、そういうものがあったのかもしれない…そんな気も少しして、この頃また手探りをしている。 |
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以前から、いつかここで紹介したいなと思っていた本。
今、手元にないのですが、日本に一時帰国して、特に東京都内でじわじわと精神的ダメージを受けた今回、この本のことを思い出したので、これを機会にご紹介したいと思います。 あとがきで著者の飛幡さんは「『これは私の知っているフランスとは違う』と思われる読者もいるかもしれない」というようなことを書かれていますが、逆に「これこそ私が知っているフランス、私の好きなフランス」と思う人もいるのではないかと思うし、実際に私はそう思いました。特に、私がこの本を読んだのは、サルコジが国家元首に選ばれたショックと、その後に続いた「アメリカ的な」功利主義が頭をもたげてきた雰囲気の中だったので、「そうだ、これがフランスらしさだ」とじわっと胸にきました。私にとっては「それでも住みたいフランス」というより、「だから住みたいフランス」です。 それは、たとえ日常生活での不便さがあろうとも、逆に「だから」と私は言ってしまう、そういうフランス。 フランスに住んだことのない人にとっては、なかなか理解できないところもあるかもしれません。でも、フランス人がいかにモノを買わないか、フランス人がときにアメリカ人や日本人に「偏屈」と見られるほどいかに「頑固」であるか…など、フランスの社会の内部について一般には報道されないことを知ってもらえると思います。 ただ、こういう視点で見たフランスが好きかどうかは、人によると思います。それは政治的指向も関係すると思います。 私はこの本に共感をおぼえるのと同じところで、chaosmosさんの最近の「左翼の日記」(前編)(後編)に共感をおぼえました。(特にBIO運動についての部分…って、そこ、ほんの一部だけど。) すべてつながっているなあと思います。 |


